「司馬遼太郎が是とした『すがすがしさ』」
関川夏央 解説・解題「言葉の共同作業を尊ぶ心」
司馬遼太郎『日本語の本質―司馬遼太郎対話選集 2』文春文庫
日本では、デベイトの強者をいかがわしやつ、サギ、インチキ師、ヘラズ口というんだ、というたぐい。どうして互いに自分の弱点を持ちよって、机の上で弱点会議をやらないのか。(237-238頁)
司馬遼太郎の「軟体動物みたいな、ビールの泡のような日本語がはこびる」という言葉は、いわゆる「日本語の乱れ」を嘆ずる言葉ではなかった。人を言いくるめる技倆の向上、あるいは口喧嘩に勝つための屁理屈の達者さをよしとするがごとき風潮への憂いであった。
バブル経済の頂点へと向かいつつあったこの一九八0年代末葉、「ディベート」という言葉はテレビマスコミを中心に流行していたが、それはおそらく「国際化」への焦燥の末節的表現であった。司馬遼太郎は、そのような空論の空転をもっとも嫌ったのであるが、それは、彼がもっとも重きを置いた価値、人間の「すがすがしさ」の対極にあるものと認識されたからである。(238頁)
「すがすがしさ」とは漢字で表記すれば「清々しさ」であって、換言すれば、司馬遼太郎は「美しさ」をもって是としたのだと私は理解しています。「すがすがしくあること」、また「美しくあること」は、行住座臥、あらゆる場面にわたっての試金石です。明恵上人の「阿留辺畿夜宇和(あるべきようは)」を思いだします。