「今年はじめての写真集です。井上博道『東大寺』です」

「華厳をめぐる話」
司馬遼太郎『十六の話』中公文庫
 ところで、写真家井上博道氏は、幼いころから上司海雲氏に親しみ、長じては境内を歩きつくし、東大寺の一塵一露まで愛してきた人なのである。
 私とは八つ下らしい。
 兵庫県日本海岸の但馬(たじま)・香住(かすみ)の臨済宗南禅寺派の末寺にうまれ、昭和二十年代の初期に龍谷大学に入った。(138頁)

 ともかくも井上博道の写真は、そのころ(司馬遼太郎が産経新聞の記者だったころ)から個性的だった。建物を撮った写真が多かったが、指頭でたんねんに蠟質をのばしたように粘りのある翳をもった作品で、ときにヴラマンクの名画を思わせた。
 ときに、構図の中に人物がまじることもあった。動作からつぎの動作に移ろうとするときの微妙な充実がゆったりととらえられていた。(140頁)

 ときに、千数百年集積された日本人の美意識が、この人ひとりでもって代表されているのではないかと思ったこともある。この人における美意識とは、味覚から、根来塗(ねごろぬり)の朱、あるいは舞いおちてゆく落葉の色にいたるまで及ぶ。
 不覚にも、私は、このひとがながい歳月をかけて東大寺のくらしを撮りつづけていることに気づかなかった。
 なにしろ、東大寺には、奈朝の盛時の天平のくらしが、華厳とともにそのまま息づいている奇跡の場所なのである。
 ある意味では、日本のなにかが純粋に棲息しているといっていい。
 そういう精神の大洞窟に、井上博道氏は、半世紀ちかくともに棲息することをゆるされてきた。ゆるされることにあたいする理由は、以上のとおりである。
 今後、私は、もし外国人から、もっとも純粋な日本とはなにかときかれた場合、きっとこの写真集を広げてみせるに違いない。(145-146頁)


今年はじめての写真集は、司馬遼太郎をしてここまでいわしめた、井上博道の写真集『東大寺』です。明日届く予定です。古書です。楽しみにしています。