内田百閒「長春香」慌てて立ち去る


内田百閒「長春香」
千葉俊二,長谷川郁夫,宗像和重 編『日本近代随筆選 2 大地の声』岩波文庫

 「それ(関東大震災)から今年で十二年目である。九月一日に東京にいなかった一年をのぞいて、私(百閒)は毎年その日になると、被服廠跡の震災記念堂から、裏門を出て石原町の長野(初)の家のあった辺りを一廻りして帰って来る」。「もと長野の家の」「筋向かいに」あった、初と連絡を取るためにたびたび「電話を借りた」、「大きな煎餅屋(せんべいや)」の「寺島さんも一家全滅して、その家のあった後に、今は、石原町界隈の焼死者をまつる小さなお寺が建っている。だから長野の霊も、そのお寺の中に祀られているのである」。(69-70頁)

 そして、「月日のたった今、うっかり考えていると」、百閒は錯乱する頭のなかで、当時のことを話す初の声を耳にする。「勿論そんな筈(はず)は」なく、
 「私は年年その小さなお寺の前に起って、どうかするとそんな風に間違って来る記憶の迷いを払いのけ、自分の勘違いを思い直して、薄暗い奥にともっている蠟燭(ろうそく)の焔(ほのお)を眺めている間に、慌(あわ)ててその前を立ち去るのである。」
との一文を最後に百閒は「長春香」を終えています。

何年たっても百閒の悲しみは癒やされることはなく、ゆえんのない話をする初の姿をふりほどくことのできないままに、「薄暗い奥にともっている蠟燭(ろうそく)の焔(ほのお)を眺め」る。「蠟燭(ろうそく)の焔(ほのお)を」じっと見つめていれば、初のいわれのない昔語りは勢いを増すばかりで、もし「慌(あわ)ててその前を立ち去」らなければ、精神に異常をきたすことを、百閒は敏感に感じとっていたのであろう。