梅雨晴の間に間に_大野晋『日本語練習帳』のことども


 2015年発行の 川村二郎『孤高 国語学者 大野晋の生涯』集英社文庫 には、「二00万部を超えるミリオンセラーとなる」との記録がある。大野晋『日本語練習帳』岩波新書 がなぜここまで発行部数をのばしたのかは、今もって謎である。「梅雨晴の間に間に」読みなおしたが、決して読みやすい文章ではないし、これほどまで多くの読者の興味をひくような内容とはとても思えない。一級の国語学者が書いた、専門領域に触れた本がなぜこれほど読まれ続けているのか、不思議でならない。一過性の日本語ブームのひと言では、かたづけられない数字ではあるが、ブームとはえてしてこういうものなのだろうか。

 『日本語練習帳』の印税は、大野晋のその後の学究生活を支えた。それは最晩年の学究生活だったために、その意義ははかりしれないものであった。
 『日本語練習帳』は1999年1月に岩波書店から刊行された。

 大野が『日本語練習帳』の印税も使ってインドからタミル語の専門家を学習院大学に招き、(十日間の)シンポジウムを開いたのは、平成十一(1999)年十月二十六日のことである。来日したのはタミル大、マドラス大、ジャフナ大の教授クラスの研究者など、十一人だった。
川村二郎『孤高 国語学者 大野晋の生涯』集英社文庫(335頁)

 シンポジウムが終わる直前、前タミル大学学長、アゲスティアリンガムが特に発言を求め、
「正直にいおう。私は大野先生の仮説について、東京にくるまで半信半疑だった」
 といってから、次のように語った。
「しかしシンポジウムの十日間、同じイスに座って討論を聞くうち、私の疑問は一日ごとに取り除かれていった。この仮説は理論的に、実際的に、科学的に見て、受け入れられなければならないものであるという結論に達した。日本語はタミルからきたという、少なくとも九十パーセントの確信を私は持った」
 タミル語研究の第一人者のこの発言以降、大野は、
「僕の仮説が学会の定説になるには百年かかるだろうと思ってたけど、これで百年待たなくてもよくなったよ。七十五年後には、定説になっていると思うな」
 と話すようになった。
 しかし大野はその後も、仮説の検証を怠ることがなかった。
川村二郎『孤高 国語学者 大野晋の生涯』集英社文庫(337頁)


 伊藤若冲の言葉、「千載具眼の徒を竢つ(千年の間作品を評価してくれる人を待つ)」が思い出されるが、大野のこの発言は、どことなくおかしく、かわいらしく、愛嬌があって、愉快に聞こえる。
 とはいえ、学習院では「大野ススメ」と呼ばれ、司馬遼太郎からは「先生は、抜き身の刀のような方ですね」と言われ、誹謗中傷の矢面に立たされていた大野晋の真骨頂がこんなところにあるべくはずもなく…。

以下、
伊藤若冲 「千載具眼の徒を竢つ」
です。ご参考まで。