梅雨晴の間に間に_西行「虚空の如くなる心」


白洲正子『西行』新潮文庫
「そらになる心」についての解釈には二つの説があるが、白洲正子は、「うわの空になって落着きのない心は、春の霞さながらである(岩波古典文学大系)」「と解したい」と述べている。(22頁)

「虚空の如くなる心」については、以下の如くである。
〈原文〉
紅虹(こうこう)たなびけば虚空(こくう)いろどれるに似たり。白日かゞやけば虚空明かなるに似たり。然れども虚空は本明かなるものにもあらず、又色どれるにもあらず。我又此の虚空の如くなる心の上において、種々の風情をいろどると雖(いへど)も更に蹤跡(しょうせき)なし。此の歌即ち是れ如来の真の形体なり。(14頁)
〈白洲正子訳〉
美しい虹(にじ)がたなびけば、虚空は一瞬にして彩(いろど)られ、太陽が輝やけば、虚空が明るくなるのと一般である。わたしもこの虚空のような心で、何物にもとらわれぬ自由な境地で、さまざまの風情(ふぜい)を彩っているといっても、あとには何の痕跡(こんせき)も残さない。それがほんとうの如来(にょらい)の姿というものだ。(15頁)

「そらになる心」から、「虚空の如くなる心」に到達するまでには、どれほどの歳月がかかったことだろう。この二つの「心」には雲泥(うんでい)の差があるが、まったく似ていないとも言い切れない。(21-22頁)

「そらになる心」が、「虚空の如き心」に開眼する、その間隙(かんげき)を埋めようとして、私は書いているのだが、西行の謎(なぞ)は深まるばかりである。わからないままで、終わってしまうかもしれない。それでも本望だと私は思っている。わからないことがわかっただけでも、人生は生きてみるに足ると信じているからだ。(22-23頁)

白洲正子の本領である。