「ある効率的な勉強法とその行方」


理科の第二(一学期末)テストの前夜、
「体細胞分裂と減数分裂の違いがわからないので、教えてください」
との質問をうけました。えっ、と思いましたが、いわれるままに説明しました。

 その翌日。数学のテストを明日にひかえた夕方には、先の彼女から、
「『精選プリント(数学の先生が課した課題のプリント)』の難しい問題を教えてください」
といわれましたので、
「具体的な個々の問題についての質問ならば説明するけれども、そういった漠然とした質問には答えようがない」
といいました。数学はのみこみが早く、よくできる子です。教科書に類題のない「精選プリント」の問題については、一斉授業であつかいましたし、その後個人的にもみました。結局、「精選プリント」についてはそれっきりで、そのままになってしまいました。

 そして、その夜には、
「『数友』(『数学の友』というワークブック)の難しい問題を教えてください」
といわれ、その言葉をどう解釈すればいいのか、わからぬままに、
「『数友』の難しい問題はもう説明した」
とだけいいました。その日の夕方に『数友』の難しい問題については、一斉授業で解説しました。『数友』もそれっきりのことで、その後なんの音沙汰もありませんでした。

 はじめてのことで腑に落ちず、以来ずっとこのことについて考えていました。そして今、彼女の一連の言動を、「自分で勉強するのはめんどくさいので、とにかくてっとり早く、かいつまんで、要領よく教えてください」ということだったんだな、と私は受けとめています。理科の場合には、うかつにも彼女のトリックにのせられ、数学の場合には、我知らずしりぞけた、ということだったのでしょう。

 今後、彼女の要望にこたえてくれる誰かが、ご都合よくいつもいつもいるとはとうてい考えることはできず、この行きつく先では、「もう勉強したくありませんので、勉強はしません」という最後通告がなされるだけです。勉強の放棄を宣言した子どもたちには、過去何人かお目にかかったことがありますし、勉強との訣別まじかな子どもたちを目にしたことも何度かあります。しかし、悲しいかな私にはなす術がなく、手をこまねいているだけでした。今回の場合は、自分ですべきことの一切を投げうって、どこまでも人に頼ろうとする点が特異で、戸惑っています。今思えば、過去に出会っ勉強の放棄を宣言した子どもたちや勉強との訣別まじかな子どもたちには、彼女と比すれば、多少なりとも節度があり潔さがあったように思えてなりません