「白露の日の翌日に_この思想は難しい」

 いま白い道を歩いていると思った。湿原へと向かう、林間につけられた小径を、ひとり歩いているときのことだった。利休の歩いた道だと思った。ひき返すことのできない道だと思った。それしき、と思えばそれしきのことだった。

 今日も、白い道を歩いているように感じた。ひき返すことのできない道だと思った。散策の趣向がかわった。私が秋草になった。過去もなく、未来もなく、今もなく、時と同調しているように感じた。木道上でも同じ思いにかられた。
 いつ刷り込まれたのか、刷り込みから解かれつつあるのか、とまれ心は安らけくある。

「白露の日の翌日に_この思想は難しい」
 小林秀雄は、雪舟の「慧可断臂図」の掉尾に、
「この思想は難しい。この驚くほど素朴な天地開闢(かいびゃく)説の思想は難しい。込み入っているから難しいのではない。私達を訪れるかと思えば、忽(たちま)ち消え去る思想だからである。」(小林秀雄『モオツァルト・無常という事』 新潮文庫,「雪舟」,200-201頁)
と書いた。
 「白い道」について考えることは難しい。「訪れるかと思えば、忽(たちま)ち消え去る思想だからである」。さすれば、思いが交錯する見晴らしのよい地平に立つのが一番で、いまの私にとっては、湿原行が、そのよすがである。

以下、
です。