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白川静「中国の神話 ー 奪われたものがたり」

「 中国の神話 ー 奪われたものがたり」 「対談 ③ 孔子 狂狷の人の行方 梅原猛 × 白川静」 『別冊太陽 白川静の世界 漢字のものがたり』平凡社 梅 原  白川先生の三作を選ぶとしたらね、絶対『孔子伝』は入れんならん。それに、字引ですね、字書三部作。それからもう一つは古代中国の専門的な研究だなあ、或いは『詩経』だな。 (中略) ギリシア神話はよく知られてる、ローマ神話は知られてる、日本の神話は知られてるけど、中国の神話ってものがあんまり知られていないような気がしますけどね。 白 川  日本の場合には神話が一つの国家神話的な形で統一されてね、本来別々のものが何か関連があるという風な形にそれぞれ部署が与えられてね、まとめられて、そしてそういうまとまったものが神話である、という考え方が我々の中にあった。 梅 原  ギリシアもそうですね。 白 川  ところが中国のはバラバラなんですね。それは非常に古くからあった部族国家が、それぞれみな神話を持っておった。それが色々、滅ぼされたり移動したりする間にね、場合によっては受け継がれることもあるけれども、或るものは滅びてしまう、という風にしてね。まとまった形では殆ど残ってないんですね。  ただ、しかし残されたものが、先刻言いましたように『楚辞』の中に、或いは『荘子』の中にたくさん出て来る。それから『山海経』という大変不思議な書物ね、あの中にまた色々な神像が出て来る。 白 川  (前略)本来は実際に神話として生きておった時代がある訳ですね。そういう風なものが形骸的に残ったのが『山海経 』。 梅 原   日本神話というのも、実際はあちこちに語られておる神話を一つの体系にまとめたんです。非常にそこに無理があるんですけどね。中国は殷も周もそういう神話を統一するという、そういう要求を持たなかったんですかね。 白 川  それは違った神は信仰しないという考え方があるの。その神にあらざれば祀らず、というね、違った神様を祀るということは決して幸せなことでないという考え方がある。 梅 原   ギリシアでも『神統記(しんとうき)』とか、統一しようとする動きがあります。神を祀っている部族を統一しようとする要求の中から起こって来た。日本の神話も、ギリシア神話もね。中国は「神を祀らず」だから、自分の神しか出て来ない。だから神話が落ちた訳ですか。 白 川  神

白川静「ディオニュソス的中国観」

「『白川静』の学問 ー 異端の学?」 「対談 ① 神と人との間 漢字の呪力 梅原猛 × 白川静」 『別冊太陽 白川静の世界 漢字のものがたり』平凡社 梅 原  もう三十年も前になりますか。それからずっと、先生をみてますと、先生は年々偉くなってる。年々先生の凄さが私にも解ってきたような気がする。  前は先生を偉いが異端の学者だと思ってましたけど、中国学の本道ではないと思ってました。しかしだんだん、先生が一つの大きな学問を開かれているんだという、そういうことを実感し始めたのです。私は先生の本の全部を理解するにはとても及びませんけど、私の理解した部分だけでも、一つの新しい中国学がここで始まっていると、中国の文明というものを本当に理解するためにはどうしても必要な、世界的に重要な新しい学問が先生によって作られているんだ、ということをつくづく感じます。  この例は適当かどうか解りませんけど、私が若い時から好きなニーチェ、このニーチェがディオニュソス的ギリシアを発見した。今まではアポロン的に、合理主義的に理解されて来たギリシア哲学は理性の体系だと、ギリシャ思想は “もの”をクリアに見るアポロン精神でのみ理解されて来たんですが、そればかりではない、もう一つギリシアには、違った精神がある、それはディオニュソスだと。ディオニュソスというのは酒の精神ですからね、情熱が溢れ出るようなそういう熱狂の精神がギリシアにある。それがニーチェの新しいギリシアの発見です。そのニーチェの発見と同じものが先生にはある。  私は吉川幸次郎(よしかわこうじろう:京都大学名誉教授)先生の著作を愛読しているんですけど、吉川先生が中国でいちばん好きなのは孔子(こうし)と杜甫(とほ)だと、特に杜甫ですね。それは不可思議な世界があることを感じてはいるが、認識を人間の及ぶ理性の範囲に留めた。いわゆる「怪力乱神 を語らず」です。そういう点で、孔子と杜甫をいちばん評価している。「吉川中国学」というのは、アポロン的な中国観なんですよ。  ところが先生はディオニュソス的中国観を開いたのです。アポロン的なものの見方を真っ向から変えてしまった。漢字の背後に全く不合理としかいえないような、畏しい神の世界がある。(26頁)  従来の「中国学」は、「白川中国学」を通して見直しを余儀なくされ、また今後の「中国学」は、「白川中国学」の上に築か

白川静「鳥が運んだものがたり」

「死・再生の思想 ー 鳥が運んだものがたり」 「対談 ③ 孔子 狂狷の人の行方 梅原猛 × 白川静」 『別冊太陽 白川静の世界 漢字のものがたり』平凡社 梅 原  特に縄文時代、しかし弥生時代にも多分に縄文が残っているでしょう 、殷的なものが。それから、やはり「死・再生」です。魂が古い屍を去って、あちらへ行く。無事あちらへ送らなくちゃいけない。そういうのが大きな願いなんですね。生まれるのは、今度はあちらからこっちへ帰って来る。  死・再生というのは東洋の重要な宗教儀式だと思っているんですが、例の伊勢神宮の柱ですね。 編集部  心(しん)の御柱(みはしら) 梅 原  御遷宮(ごせんぐう)ですね、柱の建て替え。それと同じようなものが 「 諏訪(すわ)の御柱(おんばしら)」。 (また能登の「真脇(まわき)遺跡のウッドサークル」) (中略)  だから御遷宮のように木を作り替える。ウッドサークルは縄文まで遡るんですよ。それはやはり生命の再生。木は腐る、だから腐らないうちに、神の生命が滅びないうちに、また新しい神の命を入れ替えてですね、ずっと伝える。こういうのがですね、私、日本の宗教の基本だと思ってますが、こういう儀式をもっと壮大にしたのが殷の姿だと、字の作り方なんかで感じました。 白 川  中国ではね、鳥形霊(ちょうけいれい:鳥の信仰は全世界に分布する。鳥は必ず水鳥・渡り鳥である)という考え方があるんですが、これはやはり祖先が回帰するという考えに繋がっておるんじゃないかと思う。季節的に決まった鳥が渡って来るでしょ。 梅 原  水鳥ですね。鳥の信仰は殷にはありますか、鳥は霊ですか。 白 川  あります、鳥は霊です。星でも鳥星(ちょうせい)ちゅう星を特別に祀っています。どの星のことか知らんけど、甲骨文に出て来る。特別の信仰を持っておったんではないかと思うんですがね。  鳥星は「好雨(こうう)」の星と考えられていたので、「止雨(しう)」を祈るんです。甲骨文にそのことが書いてある。 梅 原  (前略)だから今の日本でやる玉串奉奠(たまぐしほうてん)というのは、あれ、(鳥の)羽根ですね。ひらひらしているの。これはやっぱり僕は共通の信仰だった気がしますね。はっきり出て来ますか、鳥は。 白 川   ええ、だから色んな民俗的なものにも出て来てね。例えば軍隊を進めるかどうかという時ね、「隹」書

白川静「荘子の儒家批判」

「荘・老 ー 『荘子』・神々のものがたり」 「対談 ③ 孔子 狂狷の人の行方 梅原猛 × 白川静」 『別冊太陽 白川静の世界 漢字のものがたり』平凡社 梅 原  (前略)もう一つ面白かったのは、老子(ろうし)がですね、そういう殷の思想を受け継いでいるんじゃないかという先生の指摘ですけどね。これも大変面白かったですね。 白 川  それはね、儒教の批判者としては、荘周(そうしゅう)、荘子(そうし)ですね、荘子が初めに出て、老子というのは実は後なんです。 梅 原  普通逆に考えられますけど。 白 川  『老子』という書物は全部箴言(しんげん)で出来ている。全部韻(いん)をふんで、格言みたいなね。箴言集なんです。  荘周の学派は、どちらかというと儒教とやや近いんですけれども、うんと高級の神官のクラスですね。この連中はお祭を支配する司祭者ですから、古い伝統をよく知っている。神話なんかもよく知っている。そして古い氏族の伝統なんかもよく知っている。そういうことを知っておらんと祭は出来ませんからね。  だから同じ祭儀を行うにしてもね、儒家はそれの下層の方、荘周の一派はそれのうんと上層のね、神官の知識階級ですね。だから彼らのものの考え方はかなり哲学的であるし、ニーチェなんかに似とるとよく言われますね、あの文章は。そういう非常に思弁的なグループなんですね。そして彼らが儒家の思想を批判するのです。儒家の考え方というものはね、葬式とかそういう「もの」に即して具体的であり、現実的であるけれどもね、超越的な、絶対的なという風な、形而上的なものがないという。 梅 原  その通りです。 白 川  そういう立場から、儒家を批判する。そしてその批判する議論の仕方にね、単に論理を使うだけではない、いわゆる寓話を使う。その寓話の大部分が神話です。当時おそらくあったと思われる神話は、殆ど『荘子』三十三篇の中にある。儒教はね、神話は殆ど使わない。 梅 原  そうですね。ないですね。 白 川  彼らはその伝承にあずかっておらんのです。ところが荘周の一派はね、そういう神話の伝承を持っておって、そういう立場から古代の葬式を支配しておった。彼らからみると、儒家の考え方は相対的であり、思弁的でないと。もっと超越的な立場というものを持たなければ、思想というものは完成されないという、そういう立場からね、儒家の実践道徳的なそ

白川静「『孔子伝』_つくられた聖人像」

「和辻哲郎の『孔子』 ー 白川静の『孔子伝』」 「対談 ③ 孔子 狂狷の人の行方 梅原猛 × 白川静」 『別冊太陽 白川静の世界 漢字のものがたり』平凡社 白 川  中国の思想史・精神史においては古典的な「聖人の系譜」というものがあって、従来はね、初めから聖人であることを認めた上で書くというやり方です。今の視点から見ている。  しかし僕は「儒教(じゅきょう)というものがどういう風に成立して来たのか、という社会思想史的なものとして捉えたかった。この思想そのものが、いかにして成立して来たのか、どうして孔子という人物が古典期を代表するような思想家となりえたのか、という問題を(『孔子伝』で)正面において考えてみた訳です。  大体、孔子自身が自分で聖人ではないと言うておるんですよ、人が自分をそう評価したと言うことを聞いてね。彼自身は宗教的な存在になろうという気持ちはないんですね。むしろ『論語』とか他の資料を見ていくと、彼自身は変革を望んで何回か試みようとした。そして挫折した。  もし彼が成功しておれば一人の政治家で終わっただろうと思います。ところが彼は最後まで失敗して、流浪の生活をして、惨憺たる生涯ですわな。だからそういう生涯自体が一つの思想になります。そしてあの儒教というような一つの思想体系を組み立てるようになった。つまりその人格的な求心力というものが、多くの弟子を招き寄せた。  儒教の思想というのは、実際にはその弟子たちによって構成されたのです。核心になるところは孔子が言ったことですが、それを儒教的な体系に組織したのは弟子たちです。これはキリスト教と一緒です。本人はそう大したことは言うておらん(笑)。(122頁)  歴史中に埋もれたであろう「一人の政治家」と、祀り上げられ歴史上の「聖人」となった孔子と、白川静が描く『孔子伝』は興味深い。多少の差こそあれ、伝説とは作るものであり、作られるものであろう。「本人はそう大したことは言うておらん」、次第に、真実の所在は、この辺りにあるかのような気がしてきた。  白川静に感化されてきた。私の白川伝説のはじまりである。「本人はそう大したことは言うておらん」とは、夢夢思ってはないが、自覚症状なく、自覚症状がないのは危険信号、と心得ている。

白川静「やっぱり、蘇東坡かな」

「蘇東坡と陶淵明 ー「白川静」は三人? 「対談 ① 神と人との間 漢字の呪力 梅原猛 × 白川静」 『別冊太陽 白川静の世界 漢字のものがたり』平凡社 梅 原  先生は、中国史の中に登場する人物では、誰がいちばんお好きですかね。 白 川  一人だけですか。ず〜っと歴史的にみていって… 梅 原  ええ。 白 川  やっぱり、蘇東坡(そとうば)かな。 梅 原  蘇東坡ですか、ああ。どういうところでしょうかね。 白 川  彼はね、非常に才能もあり、正しいことを言うとるんだけれどもねえ、何遍も失脚してね、海南島(かいなんとう)まで流されたりして、死ぬような目に遇(お)うて、それでも知らん顔してね、すぐれた詩を作り、文章を書き、書画を楽しんでおった。 梅 原  ああ、そこがいいんですか。陶淵明(とうえんめい)はどうですか、陶淵明は。 白 川  陶淵明はね、ちょっと悟り過ぎ。詩はいいですよ。 梅 原  ああ、詩はいいですね。 白 川  詩はいい。詩はいいけどもね、生き方としてはね、ちょっと悟り過ぎだしね。晩年どうしとったんか解らん。四十ぐらいまでは詩でよう解りますけどね、あと死ぬまで何しとったんかね、よう解らん。まあ、世に隠れておった訳でしょうね。 梅 原  今度先生の本読んで、先生はね、隠れた詩人だと僕は思ったなあ。だからね、先生の文にはどこか解りにくいところがあるんだな。やっぱり詩のようにね。ちょっとこう独自の文体ですよ。ちょっと気負った文章なんですよ、先生のはね(笑)。 白 川  (笑) 梅 原  洒落た文章なんですよ。最後はちょっとねえ、わざと解らないようにしてるんですよ。言葉の深い意味を捉えて、それを抑えて表面には出さずに文章を書く。先生は詩人だと思ったなあ。文章が美しいんだよ。 白 川  三(散)ぐらいでしょ(笑)。 (←「散人」の意?) 編集者 詩(四)人じゃなくて、三(散)ぐらい(笑)。 梅 原  いやあ、先生は三より上の四、やっぱり詩人ですよ(笑)。(36-37頁)  蘇東坡の「知らん顔」はいいですね。 「小林(秀雄)は、ランボーが詩を棄てた原因を、『面倒になった』からだといった。」 (若松英輔『叡知の詩学 小林秀雄と井筒俊彦』慶應義塾大学出版会 166頁) 陶淵明についての会話を聞いて、こんな一文が思い出された。また 、散人、詩人の順列は愉快である。 「やっ

高橋和巳「S教授と文弱な私」

「立命館と高橋和巳 ー 『捨子物語』と「六朝期の文学論」」 「対談 ① 神と人との間 漢字の呪力 梅原猛 × 白川静」 『別冊太陽 白川静の世界 漢字のものがたり』平凡社  立命館大学で中国学を研究されるS教授の研究室は、京都大学と紛争の期間をほぼ等しくする立命館大学の紛争の全期間中、全学封鎖の際も、研究室のある建物の一時的封鎖の際も、それまでと全く同様、午後十一時まで煌々と電気がついていて、地味な研究に励まれ続けていると聞く。団交ののちの疲れにも研究室にもどり、ある事件があってS教授が鉄パイプで頭を殴られた翌日も、やはり研究室には夜おそくまで蛍光がともった。内ゲバの予想に、対立する学生たちが深夜の校庭に陣取るとき、学生たちにはそのたった一つの部屋の窓明りが気になって仕方がない。その教授はもともと多弁の人ではなく、また学生達の諸党派のどれかに共感的な人でもない。しかし、その教授が団交の席に出席すれば、一瞬、雰囲気が変るという。無言の、しかし確かに存在する学問の威厳を学生が感じてしまうからだ。  たった一人の偉丈夫の存在がその大学の、いや少なくともその学部の抗争の思想的次元を上におしあげるということもありうる。残念ながら文弱な私は、そのようではありえない。((高橋和巳)『わが解体』)(37-38頁) (S教授とは、白川静教授のことです) 以下、最後の、 ◇「蘇東坡と陶淵明 ー「白川静」は三人? ◇ 「立命館と高橋和巳 ー 『捨子物語』と「六朝期の文学論」 ◇「長生の術 ー 百二十歳の道」 の三つのタイトルの下では、白川静さん、梅原猛さん、そして編集部の方も加わって、軽妙で洒脱な会話が交わされ、三者三様に楽しまれている。 「当時の立命は素晴らしかった」と言った梅原さんの発言が結論めいているが、九十一歳になられる白川さんへの労りの言葉に満ちており、本対談の掉尾を飾る、粋な計らいとなっている。

白川静「三千年前の現実を見ることができる」

「三つの文化 ー 文身、子安貝、呪霊」 「対談 ① 神と人との間 漢字の呪力 梅原猛 × 白川静」 『別冊太陽 白川静の世界 漢字のものがたり』平凡社 白 川  第一にはね、殷の文化と日本の文化、これは一つの東アジア的な「沿海の文化」として捉えることが出来るのではないかと思った。  殷の文化のいちばん特徴的なものは、まず文身(ぶんしん:入青のこと。ただ文身は刺青と違って描くだけ。刻さない。)の俗があること、これは殷以降にはありません。それから貝の文化。子安貝(こやすがい)ですね。 白 川  もう一つはね、呪霊(じゅれい)という観念ですな。シャーマニズム的なね。お祭が殆どそういう性格のお祭なんです。何々のタタリに対する祭、というね。 白 川  そしてこの三つが共通した基礎的なものとして、文化の底にある。だから日本と中国は十分比較研究に値する条件を持っとる訳ですね。それで殷の文化を深く調べてみたいと。 梅 原  その大きな違いは文字があったかないかですわな。日本では文字がない訳ですね。だから民俗学的な方法によって明らかにするしか仕様がない。それで柳田(國男)・折口(信夫・ おりくちしのぶ)がああいう形で日本の古代を明らかにしたんですけどね。 (中略)民俗が似ているんだから、もとより文字学の成果と柳田・折口の民俗学の成果と、大変似てくる訳ですね。 白 川   柳田・折口は事実関係だけでいく訳ですけど、僕は文字を媒介としてみる訳です。 梅 原  文字を媒介にしますと、正確な答が出て来る訳ですよね。(中略)柳田・折口の民俗学は年代を考えることが出来ない。そういう弱みを持っています。先生の学問は文字を媒介としているから、年代を特定することが出来る。 白 川   日本の場合には伝承という形でしか見られないけれども、向こうの場合には文字がありますからね、文字の中に形象化された、そこに含まれておる意味というものを、その時代のままで、今我々が見ることが出来る訳です。だから三千年前の文字であるならば、その三千年前の現実をね、見ることが出来る。 白 川  そう、象形文字であるからそれが出来るんで、これが単なるスペルだったら、見ることが出来ません。 「神聖王と卜占 ー 神と人との交通」 白 川  日本に文字が出来なかったのは、絶対王朝が出来なかったからです。「神聖王」を核とする絶対王朝が出来

白川静「『字書三部作』の偉業」

「ことばと文字」 白川静『漢字』岩波新書 「はじめにことばがあった。ことばは神とともにあり、ことばは神であった」と、ヨハネ伝福音書にはしるされている。」(2頁) 「文字は、神話と歴史との接点に立つ。文字は神話を背景とし、神話を承けついで、これを歴史の世界に定着させてゆくという役割をになうものであった。したがって、原始の文字は、神のことばであり、神とともにあることばを、形態化し、現在化するために生まれたのである。もし聖書の文をさらにつづけるとすれば、『次に文字があった。文字は神とともにあり、文字は神であった』ということができよう。(3頁)  また、「さらにつづけるとすれば」、「文字は埋もれていた。文字は白川によって蘇生し、文字は神の威光を回復した」「 ということができよう」。 『別冊太陽 白川静の世界 漢字のものがたり』平凡社 本誌には、以下の対談が掲載されている。 「対談 ① 神と人との間 漢字の呪力 梅原猛 × 白川静」 「対談 ② みえるもの・みえないもの “境”の不思議の出来事 岡野玲子× 白川静」 「対談 ③ 孔子 狂狷の人の行方 梅原猛 × 白川静」  白川静 91歳。  矍鑠(かくしゃく)としている。また、「狂狷の人」である。  それぞれの質問に対し、その都度必要十分な回答がなされる。寸分の隙もない回答に疲弊するばかりだった。休み、寝みの三日がかりの読書だった。  白川静への興味は尽きない。  一昨日、叔父の四十九日の法要後、 ◇ 白川静『孔子伝』中公文庫 を、珍しく書店で購入した。孔子への関心ではなく、 「第四章 儒教の批判者」 への興味である。 そして、今日中には、 白川静『回思 90年』平凡社ライブラリー が到着することになっている。 これで、白川静の本が、 ◇『別冊太陽 白川静の世界 漢字のものがたり』平凡社 ◇ 白川静 監修,山本史也 著『神さまがくれた漢字たち』理論社 ◇ 白川静『漢字』岩波新書(2冊) ◇ 白川静 『初期万葉論』中公文庫 ◇ 白川静 『漢字百話』中公文庫  計 7(8)冊になった。お目当ては、「神々」のことである。 「『尹』が見えました ー 神が書かせ給うた…」 「対談 ② みえるもの・みえないもの “境”の不思議の出来事 岡野玲子× 白川静」 白 川  そんなもの(神との交通を司る者「尹」)が憑(つ)いとるんかな。僕には見

白川静「文字は神であった」

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「ことばと文字」 白川静『漢字』岩波新書 「はじめにことばがあった。ことばは神とともにあり、ことばは神であった」と、ヨハネ伝福音書にはしるされている。」(2頁) 「文字は、神話と歴史との接点に立つ。文字は神話を背景とし、神話を承けついで、これを歴史の世界に定着させてゆくという役割をになうものであった。したがって、原始の文字は、神のことばであり、神とともにあることばを、形態化し、現在化するために生まれたのである。もし聖書の文をさらにつづけるとすれば、『次に文字があった。文字は神とともにあり、文字は神であった』ということができよう。(3頁)  注意してほしいのは、白川静のいう神とは、キリスト教の「神」ではなく、神話に登場する「神々」のことである。白川は、「神々」を「神」に仮託している。 「一九七〇年の出来事」 『別冊太陽 白川静の世界 漢字のものがたり』平凡社 一九七〇年、そのことは、広く世間に知られることとなった。 [ (サイ)] の発見である。 岩波新書としてその年、出版された『漢字』という一冊の本は衝撃的 な のデビューとなる。 は一九七〇年を遥かに遡る時代に既に発見されている。 発見者はもちろん「白川静」。 古代中国文学者・白川静は、今はあまりにも「漢字」で有名である。 白川静は或る日、常連であった古本屋で一冊の本と出会う。 『字説』(呉大澂(ごだいちょう))。この本との出会いから時を経ずして、 白川静の甲骨文・金文の研究が始まり、 の大発見となる。 とは? ー そう、ここで語る とは、 今まで「口(くち)」と考えられ、それによって解釈されていた “漢字”を 「口は口にあらず、祝詞即ち神への申し文を入れる “器”である」と説いたことである。 この発見により「口」では解けなかった「漢字の生い立ち」が、 スルスルと、まるでもつれた糸がほぐれるように解けていった。(6-7頁)  ドラマチックで華麗な文章に仕上がっている。  しかし、『漢字』の最初に出てくる[ ]の説明は、下記のように通り一遍のものである。 「わが国では、文字のことをナといった。漢字は真名(まな)、カナは仮名である。名の上部は肉の省略形で祭肉、下の 形は祝詞を入れる器で、このとき祝詞を奏上して名を告げる。これもまた加入式である。」(20頁)  また、加入式については、 「子が生まれて一定の期間を過ぎると

白川静「[ サイ]の発見」

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2021/02/11、P教授から、 ◇『別冊太陽 白川静の世界 漢字のものがたり』平凡社 の画像が添付されたメールが届いた。 表紙には、 文字があった。 文字は 神とともにあり、 文字は 神であった。 と書かれている。 見栄えのする表紙だった。 早速、Amazon に注文した。 そして、昨日(2021/02/15)、到着した。 また、裏表紙には、 白川静の日常。 時間は静かに流れ、 淡々と一日を終える。ただそれだけ。ただそれだけ。 それだけを繰り返し、生み出される仕事の確かさ。 また、明日。 また、あした。 と書かれている。 「泣く子も黙る『漢字』の泰斗の学問人生」 白川静著『回思九十年』(平凡社) 狐『日刊ゲンダイ匿名コラム 水曜日は狐の書評』ちくま文庫  白川静を読むには覚悟を要する。身のほどをわきまえないと、あっという間に投げ出したくなる。  当書評には、吉本隆明の文が引用されている。 「白川静、一九一〇年生まれ、字書三部作『字統』『字訓』『字通』によって、また『孔子伝』などの名著によって、泣く子も黙る文字学、古代学の泰斗である。  かつて吉本隆明もこう書いた。「彼の主著『説文新義』の数冊は、わたしの手元にあるが、いまだ手に負えないでいる。(略)かくの如き学徒は乏しいかな。彼の仕事を遠望するとき、流石に、少し泣きべそをかきそうになるのを、禁じえない」(2000・5・24)(116-117頁)  吉本隆明にしてこのありようである。理解のゆきとどかないところは目をつぶって、とにかく通読することにする。 白川静 監修,山本史也 著『神さまがくれた漢字たち』理論社 また、用意が必要になる。 白川 静「序文」 「第一章 初めの物語」 「第二章 からだの物語」 「第三章    (さい) の物語」 「序文」と各章を、 「漢字の「物語」がより克明に描かれるための準備は、ここをもって万全に整いました。」(70頁) と書かれた一文に至るまで熟読する。  準備をおろそかにして、徒手で白川静と対峙するのは向こう水である。  ちなみに、本書の内容紹介には、 「漢字を見る目を180度変えた、“白川文字学”のもっともやさしい入門書!」 との一文がある。理論社の児童書である。 「はじめに 『白川静』をフィールド・ワークする」 『別冊太陽 白川静の世界 漢字のものがたり』平凡社 「白川静(しら

白川静監修,山本史也著『神さまがくれた漢字たち』理論社

すべては、「神さま」のために。 「目」のはたらき 白川静 監修,山本史也 著『神さまがくれた漢字たち』理論社 「民(たみ)」すなわち「たみ」は、あるいは「田見(たみ)」という語のうちにその語源を求めることができるのかも知れませんが、その「民(みん)」の漢字の成り立ちには、むしろそのうち(農耕に従事する人、罪を負う人、天皇の財宝とされる人など)の「罪を負う人」のイメージにいくらか通うものがあるようです。「民(みん)」の字は、もとは、大きい矢か針で目を突き刺す形で記されました。おそらく殷王朝を脅かす異族を戦争で捕え、その「人」の「目」に加える処罰を示すものと考えられます。こうして眼睛(まなこ)を失った捕虜のおおぜいは神の僕として仕える身となります。  これらもの見えぬ「民(たみ)」は、音の領域でこそ、残された耳の感覚を研ぎすましてゆきます。その「民(たみ)」の奏でる音曲(おんぎょく)はきっと神の心を限りなく楽しませたにちがいありません。のちそのような盲目の楽人すなわち演奏者は「瞽史(こし)」と呼ばれ、宮廷や各国の王のもとで、宮廷楽のゆたかな伝統を育んでゆくのです。春秋時代に至ってもなおその伝統は継承されます。 (中略) 孔子が、こうまでこまやかな配慮を、盲目の楽人にほどこしているのは、当時なお人々の心のうちに、盲目の「瞽史」を尊重する気風が深々としみついていたからにちがいありません。  日本各地をめぐり歩きながら、三味線の音色を響かせつづけた「瞽女(ごぜ)」もまた、視力に障害をもつ人々の集団でした。そして、その「瞽女」によって、悲哀に満ちた音曲の調べが、民衆の心の底へと浸透します。こうして「目」の「物語」は、わずかに「目」の物語にとどまらず、音楽の「物語」をも紡ぐのです。 「目」を象(かたど)る漢字には、ほかに「臣(しん)」「賢(けん)」「童(どう)」などがあり、それらはみな神に仕える人々を表す文字です。(30-33頁) 白川静先生のお名前は存じ上げていましたが、「白川文字学」という言葉には、はじめてふれました。 「死」の物語 白川静 監修,山本史也 著『神さまがくれた漢字たち』理論社  人は免れようもなく、この運命的な孤独に身をゆだねなければならなぬときを迎えます。それが「死」というものでしょう。 「死」それ自体は、形で示されることのないため、「死」の事実を実態として

白川静_「泣く子も黙る『漢字』の泰斗の学問人生」

「泣く子も黙る『漢字』の泰斗の学問人生」 白川静著『回思九十年』(平凡社) 狐『日刊ゲンダイ匿名コラム 水曜日は狐の書評』ちくま文庫  白川静、一九一0年生まれ、字書三部作『字統』『字訓』『字通』によって、また『孔子伝』などの名著によって、泣く子も黙る文字学、古代学の泰斗である。  かつて吉本隆明もこう書いた。「彼の主著『説文新義』の数冊は、わたしの手元にあるが、いまだ手に負えないでいる。(略)かくの如き学徒は乏しいかな。彼の仕事を遠望するとき、流石に、少し泣きべそをかきそうになるのを、禁じえない」  一般書は六十歳になるまで書かなかった。それまでは専門の研究に徹することを自分に課していた。かつて学園紛争のころ、学生たちがバリケード封鎖していた立命館大学の中を、白川静だけはフリーパスで研究室に通っていたという伝説がある。思えば、まだ一般書は書いていない時代であった。白川静が来れば「どうぞ」と通していた学生たちも、なかなか眼力があったといわねばならない。  本書『回思九十年』は、エッセー「わたしの履歴書」と、江藤淳や呉智英をはじめとする面々との対談で編まれた。九十歳になる学者が自分の来歴を語ろうという一冊である。  「私の履歴書」には、やはり前述した「伝説」の時代のことが出てくる。封鎖された研究室棟では、夏など、白川静はステテコ姿で過ごしていたらしい。バリケードをかいくぐって訪ねてきた編集者は、てっきり小使いさんと思い込み、部屋を聞いたという。ステテコ姿の学者は、さらにキャンパスの騒音(学生のアジ演説や学内デモの怒号などであろう)を消すために、謡(うたい)のテープをかけていた。謡を流すと、それが騒音を吸収してくれて、静かに勉強できたそうである。たしかに「かくの如き学徒は乏しいかな」なのである。  作家・酒見賢一との対談で、あらゆる仕事を果たしたあとは、書物の上で遊ぼうと、「大航海時代叢書」全巻を買ってあると語っている。書物の中で大航海時代の世界を旅してみたい。それが先生の夢ですかと尋ねる酒見に、「うん。夢は持っておらんといかん。どんな場合でもね」と白川静は答えている。 (2000・5・24) (116-117頁) いま思えば、 ◇ 狐『日刊ゲンダイ匿名コラム 水曜日は狐の書評』ちくま文庫 との出会いは有意義だった。〈狐〉に化かされるのは幸いかな。

TWEET「心急き」

 2022/08/01、父の入所している「介護老人保険施設」の相談員さんから、父の余命 幾許(いくばく)もなく、と告げられ、最期をどこで迎えられますか、と問われ、 心急き、生活が一変した。 TWEET「内向・外向」  2022/09/14  最近とみに、外出することが増え、人と合う機会が多くなった。気の流れが内に向かうのを常とする、私の気が外に向かって霧消している。やむを得ないことばかりで、仕方がないが、その結果、疲弊・消耗している。  活字離れ、多動。日々 症状は進行し、心身ともに、当所(あてど)もなく彷徨(さまよ)っている。こころの疲弊・消耗を、彷徨(うろつ)くことで補償しようと目論んでいるが、常にこころはついてまわり、いまの私にとって、彷徨するとは、右往左往することと同義語である。  しかし、死の予感とともにあり、身の置きどころのない、このやるせなさは、まだしも幸いである。  毎年 夕暮れを早く感じるのは、彼岸を過ぎたころからである。

「思いもよらず、白川静です_2/2」〈『意識と本質』_はじめから〉

若松英輔『井筒俊彦―叡知の哲学 』慶應義塾大学出版会   和歌における「見る」働きに、実存的ともいえる特別な意味を込めて論じたのが、白川静だった。新古今あるいは万葉にある、「眺め」、「見ゆ」という視覚的営為に、二人(白川静と井筒俊彦)が共に日本人の根源的態度を認識しているのは興味深い。この符合は、単なる学術的帰結であるよりも、実存的経験の一致に由来するのだろう。  井筒俊彦が根本問題を論じるときはいつも、実存的経験が先行する。むしろ、それだけを真に論究すべき問題としたところに、彼の特性がある。プラトンを論じ、「イデア論は必ずイデア体験によって先立たれなければならない」(『神秘哲学』)という言葉は、そのまま彼自身の信条を表現していると見てよい。  以下に引くのは白川の『初期万葉論』の一節である。  前期万葉の時代は、なお古代的な自然観の支配する時期であり、人びとの意識は自然と融即的な関係のうちにあった。自然に対する態度や行為によって、自然との交渉をよび起こし、霊的に機能させることが可能であると考えらえていたのである。 〔中略〕  自然との交渉の最も直接的な方法は、それを対象として「見る」ことであった。前期万葉の歌に多くみられる「見る」は、まさにそのような意味をもつ行為である。  「『見る』ことの呪歌的性格は『見れど飽かぬ』という表現によっていっそう強められる」とも白川は書いている。  井筒、白川の二人が和歌、すなわち日本の詩の源泉に発見したのは、芸術的表現の極ではなく、「日本的霊性」の顕現だった。 (中略)  白川は文字を「見る」ことから始めた。文字の前に佇み、何ごとかが動き出すまで、離れない。次に彼が行ったのは、ひたすらにそれを書き写すことである。すると文字は自らを語り始めると白川は考えた。井筒もまた、同じ姿勢で、テクストに対峙したのではなかったか。 (中略)  学問とは知識の獲得ではなく、叡智の顕現を準備することであるという態度において井筒俊彦と白川静は高次の一致を現出している。(251-253頁)

「思いもよらず、白川静です_1/2」〈『意識と本質』_はじめから〉

若松英輔『井筒俊彦―叡知の哲学 』慶應義塾大学出版会  すべて名づけられたものはその実体をもつ。文字はこのようにして、実在の世界と不可分の関係において対応する。ことばの形成でなく、ことばの意味する実体そのものの表示にほかならない。ことばにことだまがあるように、文字もまたそのような呪能をもつものであった。  井筒が書いたのではない。『漢字百話』中の白川静による文章である。 (中略)  呪の語源は「祝」であると白川は書いている。「呪」の字は「いのる」とも読む。白川は「呪能」と同義で「呪鎮」という表現を用いることもある。  白川静を登場させるのは唐突に見えるかもしれない。しかし、「コトバ」、文字に対峙する態度はもちろん、孔子、荘子、屈原、あるいはパウロといった人物について、あるいは詩経、万葉集、和歌誕生の来歴、すなわち詩論など論じた主題と対象、発言を並べてみれば、交わりがなかったことがかえって不思議に思われるほど二人の論説は呼応している。  文字は、神話と歴史との接点に立つ。文字は神話を背景とし、神話を承けついで、これを歴史の世界に定着させてゆくという役割をになうものであった。したがって、原始の文字は、神のことばであり、神とともにあることばを、形態化し、現在化するために生まれたのである。もし、聖書の文をさらにつづけるとすれば、「次に文字があった。文字は神とともにあり、文字は神であった」ということができよう。(白川静『漢字』岩波新書)(241-242頁)  井筒と白川の間に見るべきは言語観の一致だけではない。むしろ、両者の「神」経験の実相である。「文字は神であった」以上、それを論じる学問が、神秘学、すなわち高次の神学になることは白川には当然の帰結だった。井筒俊彦にとってもまた同じである。言語学 ー 「コトバ」の学 ー に井筒俊彦が発見していたものも、現代の「神」学に他ならない。 (中略)  井筒は、ヴァイスゲルバーとサピア=ウォーフが、何の直接的な交わりもないにもかかわらず、ほぼ同じ時期に高次な同質な思想を構築していたことに驚き、共鳴する思想が共時的に誕生することに強く反応している。同じことは、彼自身と白川静にも言えるのである。(244頁) 「唐突」にも、白川静でした。思いもかけず、両氏の符合でした。

「北原白秋_言葉の音楽的生動」

喧騒の朱夏をやり過ごし、静謐の白秋がやってきた。もの皆 鎮もることを願っています。 北原白秋「薔薇二曲」 『白金之独楽』       一    薔薇ノ木ニ       薔薇ノ花サク。    ナニゴトノ不思議ナケレド。       二    薔薇ノ花。    ナニゴトノ不思議ナケレド。    照リ極マレバ木ヨリコボルル。    光リコボルル。 北原白秋「落葉松」 『水墨集』        一    からまつの林を過ぎて、    からまつをしみじみと見き。    からまつはさびしかりけり。    たびゆくはさびしかりけり。        二      からまつの林を出でて、    からまつの林に入りぬ。    からまつの林に入りて、    また細く道はつづけり。        三     からまつの林の奥も    わが通る道はありけり。    霧雨(きりさめ)のかかる道なり。    山風のかよふ道なり。        四     からまつの林の道は    われのみか、ひともかよひぬ。    ほそぼそと通ふ道なり。    さびさびといそぐ道なり。        五    からまつの林を過ぎて、    ゆゑしらず歩みひそめつ。    からまつはさびしかりけり。     からまつとささやきにけり。        六    からまつの林を出でて、    浅間嶺(あさまね)にけぶり立つ見つ。       浅間嶺(あさまね)にけぶり立つ見つ。    からまつのまたそのうへに。        七    からまつの林の雨は    さびしけどいよよしづけし。    かんこ鳥鳴けるのみなる。    からまつの濡るるのみなる。        八     世の中よ、あはれなりけり。    常なけどうれしかりけり。    山川に山がはの音、    からまつにからまつのかぜ。 ≪落葉松≫の初めに、次の文が書かれています。  落葉松の幽かなる、その風のこまかにさびしく物あはれなる、ただ心より心へと伝ふべし。また知らむ。その風はそのささやきは、また我が心の心のささやきなるを、読者よ、これらは声に出して歌ふべききはのものにあらず、ただ韻(ひびき)を韻とし、匂を匂とせよ。(「小さな資料室_資料298 北原白秋「落葉松」)  吉田精一氏の『鑑賞現代詩 I 明治』には、また「ある作曲家に」(『詩と音楽』創刊

北原白秋「落葉松」_我が「心の幽かなそよぎ」

 “白い秋 ” がやってきた。季節がひとつめぐった。野分の置き土産である。 「落葉松(からまつ)北原白秋(きたはらはくしゅう)」 は、昨年度改定された、光村図書出版『国語 2』(中学校二年生の国語の教科書)で、はじめて取り上げられた作品です。 「落葉松」は、「水墨集」抄 所収の一編です。 ◇ 北原白秋『白秋詩抄』岩波文庫(1984年12月20日 第51刷 発行)   落 葉 松         一     からまつの林を過ぎて、    からまつをしみじみと見き。    からまつはさびしかりけり。    たびゆくはさびしかりけり。        二      からまつの林を出でて、    からまつの林に入りぬ。    からまつの林に入りて、    また細く道はつづけり。        三     からまつの林の奥も    わが通る道はありけり。    霧雨(きりさめ)のかかる道なり。    山風のかよふ道なり。        四     からまつの林の道は    われのみか、ひともかよひぬ。    ほそぼそと通ふ道なり。    さびさびといそぐ道なり。        五    からまつの林を過ぎて、    ゆゑしらず歩みひそめつ。    からまつはさびしかりけり。       からまつとささやきにけり。        六    からまつの林を出でて、    浅間嶺(あさまね)にけぶり立つ見つ。       浅間嶺(あさまね)にけぶり立つ見つ。    からまつのまたそのうへに。        七    からまつの林の雨は    さびしけどいよよしづけし。    かんこ鳥鳴けるのみなる。    からまつの濡(ぬ)るるのみなる。           八     世の中よ、あはれなりけり。    常なけどうれしかりけり。    山川に山がはの音、    からまつにからまつのかぜ。 この清らかさはなんだろう。この「韻(ひびき)」は、なにに由来するものか、数日来考えています。 下記、 「小さな資料室_資料298 北原白秋「落葉松」 からの引用です。すてきなサイトです。 2. 上記の「落葉松」の出典は、『水墨集』(大正12年6月18日アルス発行)です。同詩集には、≪落葉松≫として「落葉松」「寂心」「ふる雨の」「啼く虫の」「露」の5篇が出ているようです。そして、≪落葉松≫の初めに、

「大野晋、橋本進吉に倣いて」

大野晋『日本語と私』河出文庫 「橋本先生の演習に出ないなら、東大の国文学科に来た意味がない」 「橋本先生は何万という万葉仮名の分析から、奈良時代の日本語には母音がアイウエオの五個ではなく、八個あったことを発見されたという。その研究は『万葉集』の一語一語の研究に影響を及ぼすという。」(129-130頁)  大野晋は、一高の先輩である大学院生の石垣謙二に背中を押され、東京大学・国文学科・国語研究室で、橋本新吉の「国語学演習」を履修することにした。 川村二郎『孤高 国語学者 大野晋の生涯』集英社文庫  「木曜日の午前十時から正午までの二時間が演習の時間だった。  橋本は角張ったいかめしい顔立ちで、武人の趣がある。最初にこういった。 「私の演習は、毎週、宿題を出します。ですから、アルバイトで忙しいような人は他の演習を取って下さい」(126頁) 大野晋『日本語と私』河出文庫 「橋本進吉の宿題は質、量ともに並はずれたものだった。戦前の海軍の七曜表の「月月火水木金金」どころではではなく、  私(大野晋)は『木木木木木木木』という毎日を送っていた。  一つ一つの言葉の意味や読み方を決めるにはどんな技術が要るのか。出来れば用例を何十と集めて、文脈に従って一つずつ意味を推定する。意味を出来るだけ細かく区分する。細かく分けた上でグループにまとめる。そのグループに共通な意味を抽出し、類似の単語との違い目を見る。意味や読み方の年代的な移り変りに気をつけて、その時期を見定める。その結果をギリギリに絞ってまとめ上げる。(橋本先生の演習で学んだ単語研究の原則は、そのまま私の中に定着し、以後の私の日本語研究の基本的方法の一つとなった。それは今も私を支配している。 (中略) それのみならず現在の私の単語研究もまたほとんど同じ根本資料を使い、同じ姿勢で進めている。今の方が多少材料の幅は広く、組合わせ方は少し複雑になっているが」(134-135頁) 川村二郎『孤高 国語学者 大野晋の生涯』集英社文庫  「この年の三月(昭和18(1943)年)、卒業を半年後にひかえた大野は、橋本の最終講義を聴いた。  橋本はいつもの三十三番教室で、いつものようにゆっくりと、噛んで含めるように「国語音韻史の研究」を講義した。講義を終えると、  「国語の史的研究はまだなお研鑽すべき多くの問題が残っています。この先はどうか、若い

橋本進吉『古代国語の音韻に就いて 他二篇』岩波文庫

川村二郎『孤高 国語学者 大野晋の生涯』集英社文庫   大野は東大の副手をしながら昭和二十三(一九四八)年四月、横須賀(よこすか)にできた清泉女学院高校の教壇にも立つことになった。 (中略) 今日の清泉女子大学の始まりである。(150頁) 大野晋『日本語と私」河出文庫 「日本語の真実を認識するためにと思って、橋本進吉先生の講演を収録した『古代国語の音韻に就いて』(現在岩波文庫)を取りあげた。 (中略)  私はこれを原稿用紙十五枚に要約する宿題を出した。普段は喜んで勉強する生徒たちが「ワカリマセーン」「イヤデース」と口々に叫んだ。落ち着いて読めば分かり易(やす)い話だ。私は次第に憤(いきどお)ろしくなり、叫ぶ生徒たちに雷を落したかった。しかし女性を激しく叱(しか)ると、何故叱られたかは全く考えずに、ただ「オコッタ。ドナラレタ」というマイナスの記憶だけを永く残すと聞いていた。私はこらえて黒板に大きな字で書いた。「知的鍛錬は厳格なるを要す」。彼女らは静まった。数人は、実に見事な要約を提出した」(161-162頁)  大野晋の課題は凄まじいが、「橋本先生の厳しさに比べれば、僕の厳しさは百分の一だよ」と述懐している。  大学の三年次に杉本つとむ先生の「国語学特論」で、橋本進吉『古代国語の音韻に就いて 他二篇』岩波文庫 についてのレポートが課せられた。昭和六十二年四月二十一日のことだった。二百字詰原稿用紙十枚以内というものだった。 川村二郎『孤高 国語学者 大野晋の生涯』集英社文庫 「橋本先生は『石橋を叩いても渡らない』といわれているんだよ。先生は言語学においても、数学や物理学のように厳密、厳格な立証や実証が必要だとお考えじゃないのかな。君もすぐにわかるさ」 といった。石垣(謙二)のいったことは、正しかった」(127頁) と、書かれていますが、橋本進吉の研究態度が、「厳密」にして「厳格」、「立証」的であり「実証」的であったように、橋本の『古代国語の音韻に就いて』の講演は、橋本の研究の足跡を順を追ってたどるかのように整然としている。講演そのものが一篇の論文の体をなしている。橋本は講演とはいえ、一言半句ともおろそかにはしていない。  橋本進吉『古代国語の音韻に就いて 他二篇』岩波文庫の解説で、大野晋は、 「しかし橋本博士は、一つのきっかけから万葉仮名の用法を精査し、その事実を解釈し

「山の上ホテル」_寿司とうなぎと天ぷらと

常盤新平『山の上ホテル物語』白水社  吉田俊男(「山の上ホテル」の創業者)が寿司でもなく鰻でもなく、天ぷらの和食堂をつくったのは、彼なりの考えがあったからだ。日付はないが、山の上ホテルの便箋に吉田は書いている。  〈天ぷら屋のご主人にもよくお目にかかったが、ケレンがなく、何となしに昔からの日本人の見本みたいな方々が多い。  職人の方は年齢的に二つに分れる。四十歳前の人達は何か天ぷらだけではものたりない様な顔をしている。  俺は今でこそ天ぷらだけだが、今に日本料理全般の名包丁人になってみせるぞと言った様な感じの人もかなりある。  それが四十を越した人達は善かれ悪しかれ「揚げ屋」の座に坐りきった感じがするのです。  これが実は一番大切なんではないかと思ふのです。徹し切るためには、失望であろうと失敗であろうと、何でもしてみて、結局俺の本職は旨い天ぷらを揚げることだと、観念しない中には、穴子も揚げすぎたり、かき揚げの中が生だったりする訳でせう。  兎も角東京中で恐らく何千軒となくある天ぷら屋、どこに入って食べても、一応レベル以下の店と言ふものはあまりありません。〉 (中略)   吉田俊男は天ぷらと鰻や寿司を比較して、「天ぷら裏話し」を便箋に書きしるした。 (中略)  〈天ぷら屋でもうけたという話しは聞かない。それよりも寿司屋の方が大通りに面しているし、又それよりもうなぎ屋の方が大通りの四つ角に近い。  だからお金をもうけようなどと山気のある者は天ぷら屋にはない。  ところで、天ぷらですが、現在の天ぷら屋程もうからぬ商売はありますまい。大通りに寿司屋はあっても、天ぷら屋を見つけることはむづかしい。四つ角にカバ焼きの煙りは立っていても、天ぷらの旨さにはぶつかりません。  総じて横町とか裏通りに細々と仕事を続けてゐるのがこの商売です。  例へばうちを例に取れば、今年の売り上げはやっと千五00万円位で、純益はたった六0万位でした。  利益が少ないからと言って、止める気にならないのも又天ぷら商売のたのしさでせうか。  例へば花むらさん、天國さんを始め私の知る限りでは、天ぷら屋さんのご主人には共通した個性があると思ふのです。寿司屋の持つあの威勢のよさとか、うなぎ屋さんにあるあの気むづかしさに対して、天ぷら屋さんに通じる性質とは、リチギな、地味な、それに何とか天ぷらを旨く食べて頂こうかと

星野道夫「ハント・リバーを上って」

星野道夫「ハント・リバーを上って」 星野道夫『イニュニック [生命]』新潮文庫  私たちは、この土地を波のように通り過ぎてゆくカリブーの神秘さに魅かれていた。その上でニックは、一頭のカリブーの死は大きな意味をもたないと言う。それは生え変わる爪のように再び大地から生まれてくるのだと…。「追い詰められたカリブーが、もう逃げられないとわかった時、まるで死を受容するかのように諦めてしまうことがあるんだ。あいつらは自分の生命がひとつの繋ぎに過ぎないことを知っているような気がする」  僕はそんなニックの話を面白く聞いていた。個の死が、淡々として、大げさではないということ。それは生命の軽さとは違うのだろう。きっと、それこそがより大地に根ざした存在の証なのかもしれない。  僕は以前から気になっていたことを急に聞いてみたくなった。 「ニック、オオカミは殺しのための殺しをすると思うかい? つまり獲物を食べるのではなく、生命を奪うためだけのハンティングのことさ。一度そんな場面に出くわしたことがあるんだよ」  僕は何年か前、早春のツンドラで見た、生まれたばかりのカリブーの子を次から次へと殺しながら走るオオカミの姿を思い出していた。 「オレはあると思う。きっと、死はやつらにとって芸術なのさ。それは人間のもつ狭い善悪の世界の問題ではないんだ。そして、そのことは少しもオオカミの存在を低くするものではない。それがオオカミなんだ…」  クリアランス・ウッドは、「人々がまだ狩りをしながら動物のようにさまよっていた時代の、駆りたてられるような狩猟への思い」をもち、皆から「畏敬の念をもって」見つめられている「本物のハンター」,「本物の猟師」である。 「クリアランスが今ここにいたら、オレたちのことを不思議な生きものを観察するような目で見るだろうな。クリアランスには考えられないんだ、なぜそんなことを心配するのかと。そしてその目は、徹底的に相手を見下した眼差しなんだ。なぜだかわかるか?… クリアランスは今に生きているからなんだよ」  ニックが話していたように、一頭のカリブーを解体してゆくこの男の技はすばらしかった。そこに残酷さなど入り込む余地はなく、自分が殺した生きものをいとおしむかのようにナイフを入れてゆく、一人の猟師を僕は見つめていた。マイナス五十度まで下がる冬の狩りでは、クリアランスは凍えた手をカリブーの

茂木健一郎 / 江村哲二『音楽を「考える」』ちくまプリマー新書(全)

茂木健一郎 『すべては音楽から生まれる』PHP新書   お読みになる際には、下記の順序でお読みください。 ◇ 茂木健一郎 / 江村哲二『音楽を「考える」』ちくまプリマー新書 ◇ 茂木健一郎 『すべては音楽から生まれる』PHP新書  下記、茂木健一郎 さんと江村哲二(作曲家)さんの対談集『音楽を「考える」』ちくまプリマー新書 の「目 次 ※ Contents」です。 まえがき ーー「聴く」ということ 江村哲二 〈第1楽章〉 音楽を「聴く」 世界には掛け値なしの芸術作品が存在している モーツァルトが抱えていた「闇」は創造の本質を物語る 世にも美しい音楽と数学の関係 「耳を澄ます」という芸術がある 自分のなかにある音を聴く《4分43秒》という思想 創造するとは、自分自身を切り刻むということ 「聴く」ことが脳に及ばす影響とは? 〈第2楽章〉音楽を「知る」 西洋音楽を考える基本要素 ー 楽譜中心主義 日本人としてのオリジナリティ 「頭の中で鳴る音楽」は自分だけのものか? 「作曲は自分の音を聴くこと』ー ジョン・ケージの問題提起 〈第3楽章〉 音楽に「出会う」 芸術とポピュリズムの狭間で 現代音楽入門 ー 無調・12音技法はなぜ生まれたか? クラッシックは「ブーム」たりうるか? 世にも不思議な「一回性」という麻薬 名演が生まれるとき、「迷演」となる?! 米国産「ミュージカル」は好きですか? クラッシック音楽の台所事情 〈第4楽章〉音楽を「考える」 クラッシックは日本に浸透するか?「1%」の高い壁 「お子様向けクラシック」を排除しよう! クラッシック音楽の多メディア的展開 「美しさ」の感知は、最初のインプットが肝心 美や真理は批評なくしては生まれない 日本にも辛口批評と野蛮人精神を 音楽の密度と思考の密度はイコールである 人生の転機はホメオスタシスの一部である そして、生命哲学の問いが、音楽と結びつく あとがき ー 音楽の精神からの「誕生」 茂木健一郎 「究極の指揮者はふらない」 江村  音楽の世界なら、バーンスタインが言っているけれども「自分が指揮者になれるか、自分に指揮者の能力があるかどうか、など考えたこともなかった。ただただ音楽が好きで好きで仕方なくて音楽をやっていた」と。実際にウィーン・フィルのコントラバス奏者から聞いたのですが、バーンスタインの振る指揮棒は、全然テクニッ

滝川一廣『子どものための精神医学』医学書院

滝川一廣『子どものための精神医学』医学書院 「ぼくが若い頃だったら、さっそく買って読んだろうなぁ。」中井久夫氏推薦! 〈内容紹介〉  名著『看護のための精神医学』のなかで、著者の中井久夫氏は次のように書きました。 「本書では児童青年期という重要な時期の患者を独立にとりあげることはしていない。それは、良き著者を得て別の一冊が生まれるのを待っていただきたい」 ――中井氏に“指名"された著者による待望の書が、ようやく刊行される運びとなりました。  発達障害、知的障害、ADHD等々、診断名を解説する本はたくさんあります。しかし「発達のおくれとは一体何なのか?」そして「この子のために何ができるのか?」を、読めば分かるように書いてある本は、意外に少なかったのです。  本書は、熟達の児童精神科医による画期的基本書です。  2017/03/27 に発売された本です。Amazon では現在品切れの状態ですが、地方都市の書店にはおいてあることがままありますが、今回はありませんでした。  Amazon に出店の古書店が、税込み価格 2700円の本書を、3,650円(新品・最安値)で出品しています。頭のよろしい方々にはかないません。 〈著者について〉 滝川一廣(たきかわ・かずひろ) 1947年名古屋市生まれ。名古屋市立大学医学部卒業後、同大学精神医学教室(木村敏教授、中井久夫助教授)へ入局。青木病院、愛知教育大学障害児教育講座等を経て大正大学人間科学部教授。現在、学習院大学教授(文学部臨床心理専攻)。 「中井氏に“指名"された著者」は、中井久夫先生のお弟子さんでした。 とにもかくにも、一刻も早い増刷を待ち望んでいます。 追伸:紀伊國屋書店ウェブストア には、僅少ながら在庫がありました。複数冊の注文はできません。書店も頑張っていますね。見直しました。

中井久夫「私の死生観」より抜粋

「私の死生観ー“私の消滅”を様々にイメージ」 (六十歳のときに執筆されたものです) 中井久夫『隣の病い 中井久夫コレクション』ちくま学芸文庫 「人々みな草のごとく」  「ワン・オヴ・ゼム」であり、生理・心理・社会的存在である「自分」としては、私は、社会、職場、家庭、知己との関係の中で私なりに生きてきた。私は対人関係に不器用であり、多くの人に迷惑を掛けたし、また、何度かあそこで死んでいても不思議でないという箇所があったが、とにかくここまで生かしていただいた。振り返ると実にきわどい人生であった。知りし人が一人一人世を去っていく今、私は私に、遠くないであろう「自分」の死を受け入れよと命じる。この点では「人々みな草のごとく」である。(253-254頁) 「そのときどきで満たされた『自己実現』」  昨年の三月ごろであったか、私はふっと定年までの年数を数え、もうお付き合い的なことはいいではないかという気になった。「面白くない論文はもう読まない。疲れる遠出はしない。学会もなるべく失礼する。私を頼ってくれる患者と若い人への義務を果たすだけにしよう。残された時間を考えれば、今の三時間は、若い時の三時間ではない」と思って非常に楽になった。(254頁) 「死への過程をイメージできる自分」  しかし私は、睡眠中の死や一挙の死を望んでいないようである。「自分は死ぬのだ」と納得して死にたいようである。「せっかく死ぬのだから死にゆく過程を体験したい」とでも考えているのだろうか。また私にとって、生きているとは意識があるということである。植物状態を長く続けるのは全くゾッとしないようである。高度の痴呆で永らえることも望んでいないようである。これは自分の考えを推量していっているので、自分ながら「ようである」というのである。 (中略) また、長い痴呆あるいは植物状態を望まない主な理由は、経済的に家族を破綻させるからで、私はこれらの生命の価値を否定しているわけではない。また、所詮私の自由裁量の範囲を越えた問題である。私の中で育っているに違いない死の種子の、どれが一位を占めるかは、キリスト者ならば「御心のままに」というであろう。(256-257頁) 「おわりに」  しかし私は、ときに愛する人の死のほうが、己れの死よりもつらく悲しいのではないかと思う。そのように悲しい人のことを「愛する人」というのだろうか。(2

河合隼雄「私はこころの病ということばを絶対に使わない」

河合隼雄「私はこころの病ということばを絶対に使わない」 15 気働き文化の力 中井久夫『新版・精神科治療の覚書』日本評論社  精神科の病はこころの病である、とはいろいろな教科書や啓蒙書のはじめに書いてあることだ。あたりまえの言い草にきこえる。だが、はたしてそうだろうか。  こころとは何だろうか。そしてこころは病むようなものだろか。私はここで素人ふうの哲学論をくりひろげようとは思わない。ただ、この表現が誤解を生みやすいものであることをいっておかねばならない。  いみじくも、河合隼雄氏は、ある講演の中で、「私はこころの病ということばを絶対に使わない。たいていは周囲の人に“こころがけが悪いからなる病気だ”ととられて患者が叱られるのがオチだから」と、語られた。  私の心は病んでいるかと自問自答してみると、健康だ、と胸を張っていえる状態ではとてもないが、病んでいる、という実感はない。日常用法に即していえば、「こころが病む」という用法も「こころが疲れる」という用法もめったにない。われわれは、精密な定義を追求しさえしなければ、こころというものが分かっている。その証拠は、「こころ」と話相手にいわれた時に途方に暮れたりしないことである。ただ、「こころ」が「からだ」とは全く違ったあり方で“ある”(“存在する”ーーこのことばも同じ意味では「こころ」と「からだ」に使えないだろうが)ことも分かっている。「病い」という意味も当然同じではないだろう。身体の概念を軽々しく援用することが現に患者を追いつめるならば、慎まなければなるまい。いろいろな保健衛生の教科書や家庭医学書、それにこのごろつぎつぎに出る啓蒙書ではどうなっているだろうか。  ついでながら、こころはまず「傷つくもの」であるようだ。漱石の『こころ』はおそらく、いろいろな含みのある中で、第一に「傷つくもの」としてのこころ、だろう。長く長く、皮膚の下でうずきつづけたこころの傷である。(217-218頁)   本書はこころで始まって「気」に深入りしたが、「気」にあまりとらわれてはなるまい。「気づかい」と「心づかい」のような対をいくつか作ってみると、「気」と「こころ」の含みの違いが浮き彫りにされてきはしまいか。日本語で「こころ」と呼んでいるものは、傷はついても病むものではなさそうであり、「気」中心のビヘイヴィアより「こころ」中心のビヘイヴィアのほ

河合隼雄「こころとからだの中間の病気です」

中井久夫,山口直彦『看護のための精神医学 第二版』医学書院 「こころ」と「からだ」 ーー考えすぎないための資料として ●たんなる「こころの病気」ではない 精神科医療を〈こころ〉の病気だという際の最大の副作用は、家族や隣人、ときには本人までが、「こころがけが悪いからなった病気である」と考えることである。これは有害な誤解である。むしろ、もう少しこころがけが悪くなってほしい患者のほうが多いくらいだ。  では、どこの病気であるのか。河合隼雄氏は、「こころとからだの中間の病気です」と答えるようにしているそうだ。(12頁) ●〈こころ〉と〈からだ〉のあいだには  〈こころ〉と〈からだ〉のあいだには、それでは何があるのか。ここで心身問題がでてくる。心身問題とは、昔から哲学者や医者を悩ませてきた「こころとからだの関係はどうか」という問題である。これはあまり考えすぎるとわけがわからなくなるので、「考えすぎないための資料」を記す。 1. 二つは別々に離れているわけではないのに、〈こころ〉から始めるといくら行っても〈からだ〉に達せず、〈からだ〉(脳)から始めるといくら行っても〈こころ〉に達しない。 2.(前略)もっと単純に、脳とこころとは紙の表と裏のようなもので、二つに分けることもできないが、同時に両方を眺めることもできないようなものだと考えてもよい。酒が少し入るだけでこころに大きな変化がおこるのだから、生理と心理とは文字どおり表裏一体なのだが、「表裏一体」ということは同時に両方から眺められないことでもある。(12-13頁)

中井久夫「マッサージ師はお客さんの病気をいただくのか、命が短いのです」

「私たち(マッサージ師たち)はお客さんの病気をいただくのか、命が短いのです」 中井久夫『こんなとき私はどうしてきたか』医学書院 (114頁)  マッサージ師にかかっている医療者がじつに多いですね。ただ、これは相性が重要です。お客さんが即効性を要求するからでしょうが、一般にマッサージが強すぎます。私の名古屋時代のマッサージ師はじつに私に合っていて、「今日はむずかしい患者を診てこられましたね」などと当てたものです。施術の後にぬるいお茶を一杯くださって、ちょっと離れた畳部屋で十五分寝かせてくれました。わかっている人だなと思いました。マッサージでは一般にノドが渇きますから。また、終わってすぐお金を払って出て行くと、それまでのくつろぎが吹き飛びます。特に人ごみの中へ戻るのでは。  私がむずかしい患者と連日取り組んでいたときですが、この方は、一回マッサージをした後、三週間休まれました。再開してから「センセイの身体をもんでから何か妙な感じがして働けなくなりました」と言われました。  一年後に亡くなられて息子さんの代になりましたが、息子さんは「私たちはお客さんの病気をいただくのか、命が短いのです。父のようなことはできません」と言われ、そのとおりの施術でした。  これは、患者の自己身体イメージと実際の身体を測る研究のきっかけにもなりました。 (中略) ところが、論文を二、三書いただけでこの研究を切り上げたのは、研究者が先のマッサージ師と同じ反応を起こして診療にも日常生活にも差し支えるに至ったからです。タフな男を選んだのですが。いや、タフだったから、かえってよくなかったのかもしれません。 (114頁)

中井久夫「日本の文化とは『気ばたらき』の文化である」

15 気働き文化の力 中井久夫『新版・精神科治療の覚書』日本評論社  わが国の現在はこういうタイプの「働きカルチュア」である。ただの「働きカルチュア」ではない。極端にいえば、労働量よりも何よりも「気ばたらき」がわれわれのいう「はたらき」である。課長が入室すれば、仕事の手をやすめて(目礼しないまでも)課長の入室をそれと認めるしぐさをすることが大事である。他国の多くでこういうことがぜんぜん起こらないとはいわないが、重視されはしない。  たしかに、「気ばたらき」の巧みな人をみていると、一種の美を感じる。「甲斐甲斐しい」という感じである。「気ばたらき」には独特の美学がある、といってよいかもしれない。外国の彫刻家が働く人体に認めた美とはまたちがった美である。集団の美ともちがう。一斉にオールをそろえてボートを漕ぐ美やマス・ゲームの美ではない。(220-221頁) 「働く」という意味がわが国において、このようなものであることを指摘したい。たしかに「気ばたらき」があまり重視されない職種もある。しかし、そういう職種は低くみられがちなのが、わが「働きカルチュア」の一特質である。ノルマの何倍を果たすかが問題となるソ連のスタハノヴィズムからは実に遠い。「なりふりかまわず働く」ことは、そうせざるを得ない境遇にあれば同情されるが、一般には、働きの美学からはあまり評価されない。「一人でこつこつやる人」は、ある程度の敬意を表されるが、「手を休めずに」というところに注目されるようだ。「しばしも休まず槌打つひびき…」という“森の鍜治屋”である。ある種の長期的な仕事は、だらだらやってゆくことが一つのこつなのだが、それはまったく評価されないといってよいだろう。(221頁)  「気ばたらき」が軽業(かるわざ)であるのは、また、過ぎれば「世話やき」「おせっかい」「他人の仕事にくちばしを入れる」「うるさい」奴に堕する。その微妙な一線をたえず意識していなければならない点にもある。ふつうの、業績原理による、達成度評価という一方の努力ではなく、二方向の努力の調整活動、まさに平衡をたえず回復する綱渡りである。  これが一般にあまり精神衛生によくないらしいことは、「肩こり」が日本人の国民病であることからもしれよう。(223頁)

中井久夫「日本の文化とは『気疲れ』のする文化である」

中井久夫,山口直彦『看護のための精神医学 第二版』医学書院 ●「気疲れ」ということば 3.〈こころ〉と〈からだ〉とは、眠っているときは区別があやしくなる。 4.〈こころ〉と〈からだ〉は、文化によって分け方が違う。  欧米では、〈こころ〉と〈からだ〉の二つである。ドイツの精神科医ベランケンブルクによると、健康なドイツ人は「精神の疲れ」と「身体の疲れ」の区別がわかる。しかし統合失調症になるとわからなくなるそうだ。ところが日本の患者に聞くと、話が違う。患者でなくともよい。日本では、疲れは、 ・あたまの疲れ(たとえばむずかしい数学をやったあとの疲れ) ・気疲れ ・からだの疲れ(長い道を歩いたあとの疲れ) の三つである。  このなかで「気疲れ」がいちばん苦しく、尾を引く。精神科の患者は、皆が皆、 「自分の疲れは気疲れである」 「あたまの疲れやからだの疲れは1日眠れば治るが、気疲れはそうはいかない」 「気疲れが高(こう)じて病気になってしまった」 と言う。患者でなくても、日本人は「気疲れ」がどういうものかがよくわかっている。いちばん治りが遅いことも知っている。欧米の人に説明するのに「対人関係に関係した疲れである」と言うといちばんわかる。アメリカの精神科医サリヴァンは「精神医学は対人関係の学である」と言っているのを思い合わせたい。(13-14頁)

中井久夫「もし精神科医のごときものにも一言弁明が許されるとすれば」

「思春期患者とその治療者」 『思春期の精神病理と治療』所収、岩崎学術出版社、一九七八年 中井久夫コレクション『「思春期を考える」ことについて』ちくま学芸文庫  もし精神科医のごときものにも一言弁明が許されるとすれば、私はしばしば、揺れて止まない大地の上に家を建てることを求められ、強風の中に灯をともすことを命じられているように感じている。われわれが全面的に臨床に目を向けるようになってから日の浅いことは蔽うべくもなく、なお経験を積み、新しい可能性に目が開かれることを努めつつ時を待つべきであろうが、しかし、時に私は、ビルマ戦線に仆れた若き英国詩人アラン・ルイスのことばをゆくりなくも思い出す。  ーー「われわれの悲劇は何が善であり悪であるかにあるのではない。何が良く、何が悪であるかがわからないのにしかも決断し行動せねばならないことだ」ということばを。  「詩人はただ警告するだけだ」ーーこれは第一次大戦に仆れた、やはり英国の詩人ウィルフリド・オウエンのことばであるが、精神科医がただ警告するだけで足りるならばこれほど幸福なことはない。しかし医師たるものは、技術者一般と異なり技術それ自体の成熟を待つことができない。患者の存在自体が「とりあえず」問題に立ち向かうことを強いる。それはかつてもそうであったし、これからもおそらくいつもそうであろう。けれども、思春期の精神医療に立ち向かわざるを得ない時、単に思春期というのではなく、一九七〇年代にたとえば十四歳であること、十七歳で、二十歳であることの重さ、をとくに感じないわけにはゆかない。(48-49頁)

中井久夫「教育と精神衛生」

「教育と精神衛生」 (「学校保健研究」一九八二年十月号、日本学校保健協会) 中井久夫コレクション『「思春期を考える」ことについて』ちくま学芸文庫  このような心の中のせめぎ合いの中から辛うじて私の言えることはなんだろうか。  基本的には、精神健康をめざす人間固有の力への信頼が一つ。とにかく人間は数百万年生き延びてきたのである。もう少し特殊的には、カウンセリング、相談、というものは、狭い意味では一つの技術であろうが、実際には、食事や睡眠と重要性においてさほど劣らない人間の基本的活動である、と私は考えている。  この基本的活動が不活発になることは、精神健康を掘りくずすものであると私は思う。私に凄絶な感銘を与えたのは、世界の遠隔地で働いている駐在員の話で、ホテルへ戻ってから大声でひとり言をいうことが精神衛生上絶対必要だという。「今日はまあよくやったほうだな。イヤなこともあったけどな。いいじゃないか。明日はこうしてああしてって。まあ、今日はビールをのんで演歌でも歌おう」。精神医学の重鎮で国連の任務で単身英語の通じない地域によく出張されるK先生は大きく相槌を打たれた。「そうだ。ひとり言をいわないとクレージーになるよ。あれは大切だ」。精神医学では独語はあまり精神衛生のよい状態とされていない。たしかに人に話しかけるほうが壁に話しかけるよりもよい。しかし状況によっては、壁にでも相談するほうが、頭の中で想念をわだかまらせているよりよいのである。教育が「引き出す」ということだと、西洋の語源に沿って言われるのは、教育者がよい「聞き手」になることを含意していないか。教師は「送り手」であると同じくらい「聞き手」であることが重要だと、これは大学教師であった私の反省も含めて思う。  この一般論を背景にして、次は、当人(子ども、患者)の頭越しにものを決めないことが重要だと思う。精神科医は、子どもの患者を相手にする時、特に子どもは、大人というものは皆グルだ、という外傷体験を持っていると考えてかかるべきだ、ということを味わされている。「親にだけ」と、心をこめて打ち明けたら先生に伝わっている。逆の方向もある。時には子どもの真剣な思いが笑いものにされる。子どもはペットの次に大人の慰みものにされやすい存在である。「この先生は秘密を守ってくれる」ということを言葉でなく態度によって実践によって知って、はじめて

中井久夫「秘密を守ることの意義」

「秘密を守ることの意義」 「精神科医からみた学校保健衛生」 中井久夫コレクション『「思春期を考える」ことについて』ちくま学芸文庫 」  成人の場合には、治療を拒む権利がある。実は精神障害の場合にはその権利は法的には大幅に制限されているのだが、しかし、いやそれだけいっそうに医者は患者と治療についての合意を得る努力を放棄してはよくないだろう。実際にもこの努力自体が患者の治癒可能性を大幅に増大する。精神科医の腕のほんとうの見せ所の一つだと私は考えている。  未成年の場合にもこれが手抜きされてはならないと思う。なるほど、未成年に対しては親の権利と義務がある。学校の先生にも責任がある以上発言権がある。しかし、できるだけ、本人抜きの決定は避けたいところである。子どもは、大人は皆通じあっているという感じを持つものである。たしかに経験はそれを証明しがちである。母に打ち明ければ翌日にもう父が知っている。親に話せばあっという間に先生に伝わっている。先生に訴えれば父兄会で親が聞いて帰ってくる、など。実際は、大人といえども自分ひとりで打ち明けられた秘密を荷うのは重いから分担してもらおうと話してしまうのだが、子どもは失望し、また警戒心を強める。  精神科医は子どもとの対話の秘密を親や先生に対しても守るのが治療的である、と私は考えている。子どもが芯からこの医者は秘密を守ってくれると実感しなければ、治療はそもそもはじまらない。この辺は、よく話せば理解してもらえることなので、精神科医はもっとちゃんとこういったことを親や先生に告げて了解してもらう努力が必要だ、と自戒をこめて記しておく。似た事情は、しばしば、面接の内容を、親がいっしょに帰る途中に子どもから聞き出そうとする場合に起こる。この親の行動は自然なのだが、精神科の面接の場合には、せっかく面接の場で得られたものの気が抜けてしまう。ひそかな“発酵”が起こらなくなる。こうして全く無駄になるだけでなく、同じ内容の面接は二度行うことができないから、しばしば治療全体を流産させてしまう。このことも、医者からあらかじめーー初診の時にーー親に了承してもらわねばならないことである。「気が抜けますから」と話すとわかってもらえることが多い(その代わり家族面接を準備する必要が起こる)。しばしば面接の緊張を下水に流そうとして患者のほうから話したがるので、親に了承してもらう

中井久夫「踊り場のない階段」

「精神科医からみた学校精神衛生」 「3 踊り場(中間休止)のない現代社会」 中井久夫コレクション『「思春期を考える」ことについて』ちくま学芸文庫  そういう思いを重ねるにつれて、次第に痛感されてくるのは、治療と両立するような学校生活の時期が実に少ないことである。とくに、中学、高校の場合、いずれも、三年間のうち、辛うじて二年生の時だけがそういう時期であるかのようだ。しかし、高校二年はすでに侵食されているらしく、多くの患者ーー卒業生も含めた“一般患者”ーーに問うと、「楽しかったのは中学二年生だけ」という答えがいちばん多かった。  生理学者遠藤四郎氏の言では、踊り場のない階段ほど人を疲労させるものはない、という。たとえ、エスカレーターのように人間が受動的に運ばれて行く場合でも、踊り場のない長いエスカレーターは非常に疲労させるとのことである。とすれば、これは脚の問題でなく、神経の問題である。私には現在の教育が「踊り場のない階段」に見えてくる。  大多数の少年少女がよくこれに適応しているのは、最近も福島章氏が指摘しておられる通りであろう。おそらく、古くサリヴァンが言い最近ラターが示しているように、人生の節目節目においては、その変化の中で、それ以前の不利な点、不幸な体験が、“償却”されるという面があるのだろう。たとえば思春期の到来がそれ以前の問題をしばしば止揚する。しかし、その裏を返せば、まず、それ以前の順調な発達も、その後を必ずしも保証しないということだ。また、この節目がどっちに転ぶかわからない非常に重要な時期、つまり危機だということも出てくる。その辺を考え合わせる時、子どもの適応能力をぎりぎりまで試してはならないように思う。私のような者は、適応能力がいったん破綻した人を引き受けて治療する立場であるけれども、少年少女期においては、現在への適応だけでなく、将来の成長と成熟と社会化のための余力が蓄えられてゆくことが、生涯の精神衛生を全うするために必要だと思うからである。(82-83頁)