「北原白秋_言葉の音楽的生動」
喧騒の朱夏をやり過ごし、静謐の白秋がやってきた。もの皆 鎮もることを願っています。
北原白秋「薔薇二曲」
『白金之独楽』
一
薔薇ノ木ニ
薔薇ノ花サク。
ナニゴトノ不思議ナケレド。
二
薔薇ノ花。
ナニゴトノ不思議ナケレド。
照リ極マレバ木ヨリコボルル。
光リコボルル。
北原白秋「落葉松」
『水墨集』
一
からまつの林を過ぎて、
からまつをしみじみと見き。
からまつはさびしかりけり。
たびゆくはさびしかりけり。
二
からまつの林を出でて、
からまつの林に入りぬ。
からまつの林に入りて、
また細く道はつづけり。
三
からまつの林の奥も
わが通る道はありけり。
霧雨(きりさめ)のかかる道なり。
山風のかよふ道なり。
四
からまつの林の道は
われのみか、ひともかよひぬ。
ほそぼそと通ふ道なり。
さびさびといそぐ道なり。
五
からまつの林を過ぎて、
ゆゑしらず歩みひそめつ。
からまつはさびしかりけり。
からまつとささやきにけり。
六
からまつの林を出でて、
浅間嶺(あさまね)にけぶり立つ見つ。
浅間嶺(あさまね)にけぶり立つ見つ。
からまつのまたそのうへに。
七
からまつの林の雨は
さびしけどいよよしづけし。
かんこ鳥鳴けるのみなる。
からまつの濡るるのみなる。
八
世の中よ、あはれなりけり。
常なけどうれしかりけり。
山川に山がはの音、
からまつにからまつのかぜ。
≪落葉松≫の初めに、次の文が書かれています。
落葉松の幽かなる、その風のこまかにさびしく物あはれなる、ただ心より心へと伝ふべし。また知らむ。その風はそのささやきは、また我が心の心のささやきなるを、読者よ、これらは声に出して歌ふべききはのものにあらず、ただ韻(ひびき)を韻とし、匂を匂とせよ。(「小さな資料室_資料298 北原白秋「落葉松」)
落葉松の幽かなる、その風のこまかにさびしく物あはれなる、ただ心より心へと伝ふべし。また知らむ。その風はそのささやきは、また我が心の心のささやきなるを、読者よ、これらは声に出して歌ふべききはのものにあらず、ただ韻(ひびき)を韻とし、匂を匂とせよ。(「小さな資料室_資料298 北原白秋「落葉松」)
吉田精一氏の『鑑賞現代詩 I 明治』には、また「ある作曲家に」(『詩と音楽』創刊号、大正11年9月)にも、この七章は私から云へば、象徴風の実に幽かな自然と自分との心状を歌つたつもりです。これは此のままの香を香とし響を響とし、気品を気品として心から心へ伝ふべきものです。何故かなら、それはからまつの細かな葉をわたる冷々とした風のそよぎ、さながらその自分の心の幽かなそよぎでありますから。(後略)(「小さな資料室_資料298 北原白秋「落葉松」)
この清らかさはなんだろう。この「韻(ひびき)」は、なにに由来するものだろう、「ただ韻(ひびき)を韻とし、匂を匂とせよ」,「香を香とし響を響とし、気品を気品として」、いまそのさやけさのなかにいます。
その後書店に向かい
◇ 今野真二『北原白秋 言葉の魔術師』岩波新書
◇ 上西清 編『北原白秋詩集』新潮文庫
の二冊を買い、マッターホーン(洋菓子店)・本店の喫茶室で長居を決め込みました。
◇ 安藤元雄 編『北原白秋詩集(上)』岩波文庫
は絶版で
◇ 安藤元雄 編『北原白秋詩集(下)』岩波文庫
は、在庫がなく、Amazon に注文しました。
◇ 上西清 編『北原白秋詩集』新潮文庫は、青空文庫では味気なく、やむなく買ったものです。わが街の実力です。
緒についたばかりの読書です。
この清らかさはなんだろう。この「韻(ひびき)」は、なにに由来するものだろう、「ただ韻(ひびき)を韻とし、匂を匂とせよ」,「香を香とし響を響とし、気品を気品として」、いまそのさやけさのなかにいます。
その後書店に向かい
◇ 今野真二『北原白秋 言葉の魔術師』岩波新書
◇ 上西清 編『北原白秋詩集』新潮文庫
の二冊を買い、マッターホーン(洋菓子店)・本店の喫茶室で長居を決め込みました。
◇ 安藤元雄 編『北原白秋詩集(上)』岩波文庫
は絶版で
◇ 安藤元雄 編『北原白秋詩集(下)』岩波文庫
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◇ 上西清 編『北原白秋詩集』新潮文庫は、青空文庫では味気なく、やむなく買ったものです。わが街の実力です。
緒についたばかりの読書です。
◇ 今野真二『北原白秋 言葉の魔術師』岩波新書
より、以下に一箇所だけ引用しておきます。
上記に引いた「言説」は、白秋の短歌(「定型の短詩」)について書かれたものですが、自由詩においては、裁量が一任されているだけに、「言葉の音楽的生動」は、それ以上に顕著にみられるように感じています。専門家の考察をありがたく受け止めています。
追伸:
21頁には、大学時代に教えていただいた「歌人の武川(むかわ)忠一」先生のお名前もみえ、懐かしく思いました。小柄な品のいい方でした。「年をとるごとに怒りっぽくなる」といった言葉が思い出されます。当時 宮中歌会始の選者をされていた、と記憶しています。
「気配」の人白秋
(前略)高野公彦はさらに白秋の歌に「表出されているのは、物と我との間にある気配であり、存在している物たちがかもし合っている匂いである。無中心の歌と言えば語弊があるが、中心にあるのは物でも我でもない。では何だろう。一言でいえば、歌の中心にあるのは、言葉である。いわば、言葉の音楽的生動を具現するために白秋短歌は創られている」と述べ、斎藤茂吉は「物に執着し我に執着し」「打楽器主体の単純だが響きの強い音楽」をつくり、白秋は「管楽器主体の繊(ほそ)いやわらかい愁いを帯びた音楽」をつくったと述べる。茂吉と白秋とを並べたこの言説はわかりやすいのではないか。(105頁)「言葉の音楽」
「言葉の音楽的生動」は一つ一つの語の発音であり、並べられた語の「リズム」といってもよいだろう。白秋は歌の添削や、唱歌の検証において、使われている語の母音、子音に言及することが多い。それは、自身がそのようなことにつねに留意していたからであろう。白秋にとってまず「作品をかたちづくる語」をどう選び、どう並べるか、が大事だったと思われ、そういう意味合いにおいて、確実に、言語(学)的な「書き手」であった。(後略)(105頁)上記に引いた「言説」は、白秋の短歌(「定型の短詩」)について書かれたものですが、自由詩においては、裁量が一任されているだけに、「言葉の音楽的生動」は、それ以上に顕著にみられるように感じています。専門家の考察をありがたく受け止めています。
追伸:
21頁には、大学時代に教えていただいた「歌人の武川(むかわ)忠一」先生のお名前もみえ、懐かしく思いました。小柄な品のいい方でした。「年をとるごとに怒りっぽくなる」といった言葉が思い出されます。当時 宮中歌会始の選者をされていた、と記憶しています。