「残暑中の作務」
故あって、2022/08/26 から大掃除と草取りをはじめた。毎日汗みづくになっている。今日で13日目である。以降 見事に、読み書きがなくなった。今夏の事故であり事件である。
掃除には重曹とホワイトビネガー・クエン酸、炭酸水(窓拭き用)のみを使用している。
鋸鎌での切り傷が絶えず、前腕部はかぶれてれてかゆいが、幸いにも乾燥肌用の塗り薬が効くからありがたい。切り傷の方は水洗いし、自然に治癒するのを待つだけである。
岡潔「自然に従う」
岡潔『春宵十話』角川文庫
「数学は語学に似たものだと思っている人がある。
(中略)
語学と一致している面だけなら数学など必要ではない。それから先が問題なのだ。人間性の本質に根ざしておればこそ、六千年も滅びないできたのだと知ってほしい。
また、数学と物理は似ていると思っている人があるが、とんでもない話だ。職業にたとえれば、数学に最も近いのは百姓だといえる。種をまいて育てるのが仕事で、そのオリジナリティーは「ないもの」から「あるもの」を作ることにある。数学者は種子を選べば、あとは大きくなるのを見ているだけのことで、大きくなる力はむしろ種子の方にある。これにくらべて理論物理学者はむしろ指物師に似ている。人の作った材料を組み立てるのが仕事で、そのオリジナリティーは加工にある。理論物理はド・ブローイ、アインシュタインが相ついでノーベル賞をもらった一九二0年代から急速にはなばなしくなり、わずか三十年足らずで一九四五年には原爆を完成して広島に落した。こんな手荒な仕事は指物師だからできたことで、とても百姓にできることではない。いったい三十年足らずで何がわかるだろうか。わけもわからずに原爆を作って落としたのに違いないので、落とした者でさえ何をやったかその意味がわかっていまい」(47頁)
小林秀雄「季」
小林秀雄『人生について』中公文庫
「私は、氏の言うところを、はっきり理解したとは言わないが、これは、数式ではなく文章なのである。極めて専門的な数学的表現の生れる境地を語るのに、岡氏が何ら専門的な工夫を必要としていない限り、私には、その境地の性質が直覚できる。数という種子をまき、目を閉じて考える純粋な自足した喜びを感ずる事が出来る。数学の極意は、計量計算の抽象的世界にはないらしい。岡氏の文章は、瞑想する一人の人間へ、私を真っすぐに連れて行く。そういう人間の喜びを想っていると、ひたすら事実と行動との尊重から平和を案じ出そうとする現代の焦燥は、何か全く見当が外れているようにも思われて来る」(180頁)
私には、「種をまく人」の、また収穫する者の喜びはない。私が勝手に雑草と名づけた千草のいのちを刈っているだけである。
作務と思うことにした。いままで徒に作務を怠ってきたような気がしている。