白川静「文字は神であった」
「ことばと文字」
白川静『漢字』岩波新書
「はじめにことばがあった。ことばは神とともにあり、ことばは神であった」と、ヨハネ伝福音書にはしるされている。」(2頁)「文字は、神話と歴史との接点に立つ。文字は神話を背景とし、神話を承けついで、これを歴史の世界に定着させてゆくという役割をになうものであった。したがって、原始の文字は、神のことばであり、神とともにあることばを、形態化し、現在化するために生まれたのである。もし聖書の文をさらにつづけるとすれば、『次に文字があった。文字は神とともにあり、文字は神であった』ということができよう。(3頁)
注意してほしいのは、白川静のいう神とは、キリスト教の「神」ではなく、神話に登場する「神々」のことである。白川は、「神々」を「神」に仮託している。
「一九七〇年の出来事」
『別冊太陽 白川静の世界 漢字のものがたり』平凡社
一九七〇年、そのことは、広く世間に知られることとなった。[(サイ)]の発見である。
岩波新書としてその年、出版された『漢字』という一冊の本は衝撃的なのデビューとなる。
は一九七〇年を遥かに遡る時代に既に発見されている。
発見者はもちろん「白川静」。
古代中国文学者・白川静は、今はあまりにも「漢字」で有名である。
白川静は或る日、常連であった古本屋で一冊の本と出会う。
『字説』(呉大澂(ごだいちょう))。この本との出会いから時を経ずして、
白川静の甲骨文・金文の研究が始まり、の大発見となる。
とは? ー そう、ここで語るとは、
今まで「口(くち)」と考えられ、それによって解釈されていた “漢字”を
「口は口にあらず、祝詞即ち神への申し文を入れる “器”である」と説いたことである。
この発見により「口」では解けなかった「漢字の生い立ち」が、
スルスルと、まるでもつれた糸がほぐれるように解けていった。(6-7頁)
ドラマチックで華麗な文章に仕上がっている。
しかし、『漢字』の最初に出てくる[]の説明は、下記のように通り一遍のものである。
「わが国では、文字のことをナといった。漢字は真名(まな)、カナは仮名である。名の上部は肉の省略形で祭肉、下の形は祝詞を入れる器で、このとき祝詞を奏上して名を告げる。これもまた加入式である。」(20頁)
また、加入式については、
「子が生まれて一定の期間を過ぎると、新しい家族として先祖に報告し、家廟に参拝させる加入式が行なわれる。」
との一文がある。(20頁)ここでは命名を祖霊に告げる祝儀のことである。
本文には「下の形は祝詞を入れる器で」との説明があるだけで、白川静は淡々と筆を進めている。拍子抜けした。
また、「この発見により「口」では解けなかった「漢字の生い立ち」が、/ スルスルと、まるでもつれた糸がほぐれるように解けていった。」とはとても考えられず、『太陽』ってこの手の雑誌だったの、と認識を新たにした。
『別冊太陽 白川静の世界 漢字のものがたり』平凡社
後漢の漢字学者・許慎(きょしん)の『説文解字(せつもんかいじ)』。この本は長らく「漢和辞典」の原典であった。
しかし許慎の時代には、甲骨文も金文も見つかっていない。(6頁)
許慎は、「口」を[(サイ)]と読まずに「くち」と解釈している。許慎は甲骨文も金文も知らなった。彼には、移ろう漢字の、原始の姿を知る由もなかった。「また文字学の方法も十分なものではなかった。」(『漢字』192頁) 歴史には機が沸騰する時がある。そして、天の配剤としかいいようのない偶発的な出来事が起こる。
私の手元には二冊の 白川静『漢字』岩波新書 がある。複数回の挫折を味わっている証左である。
とにかく、「白川静は大き過ぎる」。
「ことばと文字」(『漢字』2-5頁)と、「あとがき」(『漢字』191-194頁)だけでも読めば参考になると思う。お気楽な「読書のすゝめ」である。
以下、覚書です。ご参考まで。
◇ 許慎:58?〜147?年
『説文解字』:100年
◇「金文」:1000年前後から研究されていた。
◇「甲骨文字」:1899年に発見
◇ 呉大澂:1835〜1902年
『字説』
◇ 白川静:1910〜2006年
とにかく、「白川静は大き過ぎる」。
「ことばと文字」(『漢字』2-5頁)と、「あとがき」(『漢字』191-194頁)だけでも読めば参考になると思う。お気楽な「読書のすゝめ」である。
以下、覚書です。ご参考まで。
◇ 許慎:58?〜147?年
『説文解字』:100年
◇「金文」:1000年前後から研究されていた。
◇「甲骨文字」:1899年に発見
◇ 呉大澂:1835〜1902年
『字説』
◇ 白川静:1910〜2006年