中井久夫「教育と精神衛生」
「教育と精神衛生」
(「学校保健研究」一九八二年十月号、日本学校保健協会)
このような心の中のせめぎ合いの中から辛うじて私の言えることはなんだろうか。基本的には、精神健康をめざす人間固有の力への信頼が一つ。とにかく人間は数百万年生き延びてきたのである。もう少し特殊的には、カウンセリング、相談、というものは、狭い意味では一つの技術であろうが、実際には、食事や睡眠と重要性においてさほど劣らない人間の基本的活動である、と私は考えている。
この基本的活動が不活発になることは、精神健康を掘りくずすものであると私は思う。私に凄絶な感銘を与えたのは、世界の遠隔地で働いている駐在員の話で、ホテルへ戻ってから大声でひとり言をいうことが精神衛生上絶対必要だという。「今日はまあよくやったほうだな。イヤなこともあったけどな。いいじゃないか。明日はこうしてああしてって。まあ、今日はビールをのんで演歌でも歌おう」。精神医学の重鎮で国連の任務で単身英語の通じない地域によく出張されるK先生は大きく相槌を打たれた。「そうだ。ひとり言をいわないとクレージーになるよ。あれは大切だ」。精神医学では独語はあまり精神衛生のよい状態とされていない。たしかに人に話しかけるほうが壁に話しかけるよりもよい。しかし状況によっては、壁にでも相談するほうが、頭の中で想念をわだかまらせているよりよいのである。教育が「引き出す」ということだと、西洋の語源に沿って言われるのは、教育者がよい「聞き手」になることを含意していないか。教師は「送り手」であると同じくらい「聞き手」であることが重要だと、これは大学教師であった私の反省も含めて思う。
この一般論を背景にして、次は、当人(子ども、患者)の頭越しにものを決めないことが重要だと思う。精神科医は、子どもの患者を相手にする時、特に子どもは、大人というものは皆グルだ、という外傷体験を持っていると考えてかかるべきだ、ということを味わされている。「親にだけ」と、心をこめて打ち明けたら先生に伝わっている。逆の方向もある。時には子どもの真剣な思いが笑いものにされる。子どもはペットの次に大人の慰みものにされやすい存在である。「この先生は秘密を守ってくれる」ということを言葉でなく態度によって実践によって知って、はじめて子どもは真実を話してくれるものである。これは、治療の現場から教育の現場へぜひ伝えたいことの一つである。治療の現場でも親などを相手にして、この姿勢を保つことはそう楽ではないのだがーー。産業医と会社員との関係を考えてみると、いっそう分かっていただけるだろう。職場の上司に筒抜けとなれば患者は真実を語らない。しかし、同時に職場で患者の立場は守られなければならない。これは周囲が当事者を包括的に尊重することによって可能になる。
次に伝えたいことは、子ども(に限らずだが)の反抗するのは、真の権威でなく、バカバカしい権威 silly authority だという、アメリカの精神科医サリヴァンのことばである。学校の細かい制服規定にせよ、何にせよ、それが現代の教師の信じうるものならよい。しかし、そうでないならば、教師自身が信じていないということを、子どもは敏活に読みとるものである。「月給のためにああいうことをしなきゃならんのだな。大人もつらいよな」ぐらいは考えそうである。この感じは教師にも分かり、二重の屈辱感となる。子どもに対して屈辱感を持った時は、教師であろうとなかろうと、大人は余裕を失ってかなり危険な生き物になりやすい。
ということは、また、成功の見込みの薄い改革は、しないほうがよいくらいだということになる。silly authority とはカブトの内側を見すかされている権威である。そして、改善よりも先に(子どもの発達に)有害なものを除去するほうが先決だということである。
最後に、教師の集団的精神衛生が重要である。風通しのよさといおうか。この点からみて、教師が高度に管理的な集団にリードされることは好ましくない面が多かろう。精神科医集団の精神衛生が患者へのよき治療のために上級精神科医の第一に心がけるべきだという認識は最近強まっているが、教師も同じことである。すでに養護教諭の相当パーセントは自校教師同僚の精神衛生上の問題を落ち込まれている。