「憲法記念日の今日、『教育を受ける権利』について考える」

 新型コロナウイルス禍の下、臨時休校を余儀なくされ、子どもたちの「教育を受ける権利」,「学びの保障」についての議論が交わされている。しかし、概してそれらは、授業日数に関する、授業時数についての数合わせの話題に終始している。大所高所から見た教育行政に関わる議論を否定するつもりは毛頭ないが、私が述べたいのは、日々の教室内での出来事であって、教室において子どもたちの「教育を受ける権利」は本当に保障されているのか、ということである。
 1996年から、中学生を対象とした少人数制の個人塾を営んでいる。主要5教科を受け持っている。この23年あまりの間に、学校という風通しの悪い空間で、また教室という閉じられた系の中で、授業放棄という、職務怠慢な授業態度に明け暮れする先生方を少なからずみてきた。そして、それはいまも続いている。バレなければ構わないといった下卑た考えからであろうが、子どもたちの教師を見る目は厳しく、子どもたちは先生方をはっきり色分けしている。
 ひとえに自律心の欠如ということである。資質の問題である。自らを律することのできない者は、他者から管理される他ないだろう。彼らに教師としての矜持はないのだろうか。
 公教育の場がこの為体(ていたらく)であれば、子どもたちの「教育を受ける権利」が保障されているとはとてもいえまい。授業日数・授業時数の確保が子どもたちの権利を遵守するとはいえない現状が教育現場に瀰漫(びまん)している。
 教育の死と再生。再生には死を賭することが不可欠である。この先現行以上の体を晒さなければ、教育の再生はありえないのであろうか。いまこそ底を打ち、再生へと向かう絶好の時宜である。
 昨日 西村経済再生担当大臣は、小池都知事の要望に、
「日本社会を10年進めるくらいインパクトのある改革を協力しながら進めていきたい」
と応えている。
 上意下達という常套手段も結構であるが、笛吹けども踊らず、といった実際を、私は見続けてきた。政策によっては、下意上達、隗より始めることの有意さもあることを、この機に臨んで申し上げておきたい。
 また、始業後の先生方の動向を注視している。