「レオ・ヴァイスゲルバーと井筒俊彦の言語観」

 先の引用にあったレオ・ヴァイスゲルバーは井筒俊彦が深い関心を寄せた二十世紀ドイツの言語学者である。(222頁)

 さらに、ヴァイスゲルバーは、人間と母語の関係に着目する。母語が世界観の基盤を形成し、誰もこの制約から逃れることはできないことを強調する。すなわち全人類は不可避的に言語共同体的に「分節」されている。人間の基盤を成す共同体はまず、「言語共同体」であることを避けられない。彼はこれを「言語共同体の法則」あるいは「言語の人類法則」と命名し、人類が生存する上での不可避な公理だと考えた。(227頁)

 わざわざ日本語に訳さなくても、英語はそのまま理解すればよいという楽観論は、ヴァイスゲルバーの理解と共に、井筒によって退けられる。外国語を読むとき、それにどんなに熟達していても、人は母語に置き換えて理解している。意識では、横文字を理解しているつもりでも、深層意識では、仮名と漢字、あるいはその元型のイマージュによって、意味を捉え直している、というのが三十数ヶ国語に通じたといわれる井筒自身の言語観である。井筒によれば言葉とは magico-religious な実在に他ならない。magic の訳語も単なる「魔力・魔術」では内包する超越性が表現できない。(241頁)


 いま着々と進行している、英語教育尊重、日本語教育蔑視の教育の愚かさを思う。日本語の確かな「基盤」のないところに、性急なことをしても何もはじまらないことは、火を見るよりも明らかなことである。私たちは、「日本語共同体」の内にあることに思いをいたすべきである。内実をともなわない英語を話せたところで、それはいかほどのものであろうか。
 その非を指摘する有識者は多い。錚々たる面々である。「ゆとり教育」での失態と同じ轍を踏むのは、あまりにも愚かである。いつの時代も犠牲者は子どもたちである。後々 頭を下げれば済むような問題とはわけが違う。