「夏至の夜に夏炉冬扇について思う」

 明るい上弦の月が、西の空にかかっている。梅雨時の雨模様の合間をぬっての月見である。
 分厚い雲の向こうには、着々と準備を終えた灼熱の太陽がひかえている。雲が払われれば、一気に真夏である。
 授業中に脱いだり着たりを繰り返している。暑くなったり、肌寒く感じたり、と着替えに忙しい。子どもたちに「暑くないの?」と聞けば、「暑くない」と言い、「肌寒くないの?」と問えば、「寒くない」と応える。加齢にともなって、体温の調節機能がおぼつかなくなり、それを衣類の着脱で補う必要が生じてきたように思えてならない。
 けっして、熱にうなされるほどの授業をしているわけではないのだが、話しはじめるととたんに暑くなる。私の足元には、何着かの上着やらパンツやら靴下やらが転がっている。ストーブも出したままである。
 私家にとっては、「夏炉」といい、「冬扇」といい、とりたてて騒ぐほどのことではなく、必要とあれば、季節を問わずなりふりかまわず、ということである。