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白川静「中国の神話 ー 奪われたものがたり」

「 中国の神話 ー 奪われたものがたり」 「対談 ③ 孔子 狂狷の人の行方 梅原猛 × 白川静」 『別冊太陽 白川静の世界 漢字のものがたり』平凡社 梅 原  白川先生の三作を選ぶとしたらね、絶対『孔子伝』は入れんならん。それに、字引ですね、字書三部作。それからもう一つは古代中国の専門的な研究だなあ、或いは『詩経』だな。 (中略) ギリシア神話はよく知られてる、ローマ神話は知られてる、日本の神話は知られてるけど、中国の神話ってものがあんまり知られていないような気がしますけどね。 白 川  日本の場合には神話が一つの国家神話的な形で統一されてね、本来別々のものが何か関連があるという風な形にそれぞれ部署が与えられてね、まとめられて、そしてそういうまとまったものが神話である、という考え方が我々の中にあった。 梅 原  ギリシアもそうですね。 白 川  ところが中国のはバラバラなんですね。それは非常に古くからあった部族国家が、それぞれみな神話を持っておった。それが色々、滅ぼされたり移動したりする間にね、場合によっては受け継がれることもあるけれども、或るものは滅びてしまう、という風にしてね。まとまった形では殆ど残ってないんですね。  ただ、しかし残されたものが、先刻言いましたように『楚辞』の中に、或いは『荘子』の中にたくさん出て来る。それから『山海経』という大変不思議な書物ね、あの中にまた色々な神像が出て来る。 白 川  (前略)本来は実際に神話として生きておった時代がある訳ですね。そういう風なものが形骸的に残ったのが『山海経 』。 梅 原   日本神話というのも、実際はあちこちに語られておる神話を一つの体系にまとめたんです。非常にそこに無理があるんですけどね。中国は殷も周もそういう神話を統一するという、そういう要求を持たなかったんですかね。 白 川  それは違った神は信仰しないという考え方があるの。その神にあらざれば祀らず、というね、違った神様を祀るということは決して幸せなことでないという考え方がある。 梅 原   ギリシアでも『神統記(しんとうき)』とか、統一しようとする動きがあります。神を祀っている部族を統一しようとする要求の中から起こって来た。日本の神話も、ギリシア神話もね。中国は「神を祀らず」だから、自分の神しか出て来ない。だから神話が落ちた訳ですか。 白 川  

白川静「ディオニュソス的中国観」

「『白川静 』の学問 ー 異端の学?」 「対談 ① 神と人との間 漢字の呪力 梅原猛 × 白川静」 『別冊太陽 白川静の世界 漢字のものがたり』平凡社 梅 原  もう三十年も前になりますか。それからずっと、先生をみてますと、先生は年々偉くなってる。年々先生の凄さが私にも解ってきたような気がする。  前は先生を偉いが異端の学者だと思ってましたけど、中国学の本道ではないと思ってました。しかしだんだん、先生が一つの大きな学問を開かれているんだという、そういうことを実感し始めたのです。私は先生の本の全部を理解するにはとても及びませんけど、私の理解した部分だけでも、一つの新しい中国学がここで始まっていると、中国の文明というものを本当に理解するためにはどうしても必要な、世界的に重要な新しい学問が先生によって作られているんだ、ということをつくづく感じます。  この例は適当かどうか解りませんけど、私が若い時から好きなニーチェ、このニーチェがディオニュソス的ギリシアを発見した。今まではアポロン的に、合理主義的に理解されて来たギリシア哲学は理性の体系だと、ギリシャ思想は “もの”をクリアに見るアポロン精神でのみ理解されて来たんですが、そればかりではない、もう一つギリシアには、違った精神がある、それはディオニュソスだと。ディオニュソスというのは酒の精神ですからね、情熱が溢れ出るようなそういう熱狂の精神がギリシアにある。それがニーチェの新しいギリシアの発見です。そのニーチェの発見と同じものが先生にはある。  私は吉川幸次郎(よしかわこうじろう:京都大学名誉教授)先生の著作を愛読しているんですけど、吉川先生が中国でいちばん好きなのは孔子(こうし)と杜甫(とほ)だと、特に杜甫ですね。それは不可思議な世界があることを感じてはいるが、認識を人間の及ぶ理性の範囲に留めた。いわゆる「怪力乱神 を語らず」です。そういう点で、孔子と杜甫をいちばん評価している。「吉川中国学」というのは、アポロン的な中国観なんですよ。  ところが先生はディオニュソス的中国観を開いたのです。アポロン的なものの見方を真っ向から変えてしまった。漢字の背後に全く不合理としかいえないような、畏しい神の世界がある。(26頁)  従来の「中国学」は、「白川中国学」を通して見直しを余儀なくされ、また今後の「中国学」は、「白川中国学」の上に築

白川静「鳥が運んだものがたり」

「死・再生の思想 ー 鳥が運んだものがたり」 「対談 ③ 孔子 狂狷の人の行方 梅原猛 × 白川静」 『別冊太陽 白川静の世界 漢字のものがたり』平凡社 梅 原  特に縄文時代、しかし弥生時代にも多分に縄文が残っているでしょう 、殷的なものが。それから、やはり「死・再生」です。魂が古い屍を去って、あちらへ行く。無事あちらへ送らなくちゃいけない。そういうのが大きな願いなんですね。生まれるのは、今度はあちらからこっちへ帰って来る。  死・再生というのは東洋の重要な宗教儀式だと思っているんですが、例の伊勢神宮の柱ですね。 編集部 心(しん)の御柱(みはしら) 梅 原  御遷宮(ごせんぐう)ですね、柱の建て替え。それと同じようなものが 「 諏訪(すわ)の御柱(おんばしら)」。 (また能登の「真脇(まわき)遺跡のウッドサークル」) (中略)  だから御遷宮のように木を作り替える。ウッドサークルは縄文まで遡るんですよ。それはやはり生命の再生。木は腐る、だから腐らないうちに、神の生命が滅びないうちに、また新しい神の命を入れ替えてですね、ずっと伝える。こういうのがですね、私、日本の宗教の基本だと思ってますが、こういう儀式をもっと壮大にしたのが殷の姿だと、字の作り方なんかで感じました。 白 川  中国ではね、鳥形霊(ちょうけいれい:鳥の信仰は全世界に分布する。鳥は必ず水鳥・渡り鳥である)という考え方があるんですが、これはやはり祖先が回帰するという考えに繋がっておるんじゃないかと思う。季節的に決まった鳥が渡って来るでしょ。 梅 原  水鳥ですね。鳥の信仰は殷にはありますか、鳥は霊ですか。 白 川  あります、鳥は霊です。星でも鳥星(ちょうせい)ちゅう星を特別に祀っています。どの星のことか知らんけど、甲骨文に出て来る。特別の信仰を持っておったんではないかと思うんですがね。  鳥星は「好雨(こうう)」の星と考えられていたので、「止雨(しう)」を祈るんです。甲骨文にそのことが書いてある。 梅 原  (前略)だから今の日本でやる玉串奉奠(たまぐしほうてん)というのは、あれ、(鳥の)羽根ですね。ひらひらしているの。これはやっぱり僕は共通の信仰だった気がしますね。はっきり出て来ますか、鳥は。 白 川   ええ、だから色んな民俗的なものにも出て来てね。例えば軍隊を進めるかどうかという時ね、「隹」書き

白川静「死と再生のものがたり」

「殷と日本 ー 沿海族の俗」 「対談 ③ 孔子 狂狷の人の行方 梅原猛 × 白川静」 『別冊太陽 白川静の世界 漢字のものがたり』平凡社 まずはじめに、 梅 原  私が興味を持っているのは少数民族なんです。アイヌの人たちに興味を持ったのは、彼らが縄文の遺民であり、縄文文化を理解するにはアイヌ文化を理解しなければならないと思ったからです。縄文時代のことで考古学では解らんことは、アイヌの風習で解いたんですが、それで大体当たっている。(133頁) 編集部  先生、あの「殷」という字ですけど、少し説明して頂けますか。 白 川  「殷」は商の蔑称ですからね。扁(へん)は身重(みおも)の形。旁(つくり)は「叩く」。どういう意味か解らんけども妊婦を叩くんだから、何か呪的な意味があったんでしょうね。それを廟中(びょうちゅう)、御霊屋(みたまや)で行う字形もある。妊婦の持っている特別な力を作用させるために、妊婦を叩く。「殷」というのは「激しい」とか「破壊」、血が出る場合には「万里朱殷(ばんりしゅあん)たり」いう風に、万里血染めになるという。だから非常に激しい意味を持った字ですね。 梅 原  ああ、そうですか。これは面白いですね。その妊婦でいえば縄文の土偶(どぐう)は、全部妊婦なんです。 (中略)   その意味が長い間解らんかったんですが、ハル婆ちゃんにアイヌの葬法について聞きますと、妊婦を埋葬するのがいちばん難しいと言うんです。というのは、子供が生まれるというのは新しく生まれるのではなくて、祖先の誰かが帰って来たということなんです。だから子供が出来ると、A家とB家の祖先が相談して、誰を帰すか決める。で、決まったら妊婦の腹に入って出て来る。だから胎児が死ぬと閉じこめられて、出て来れない。これは大きなタタリになる。ですから妊婦が死ぬと霊を司るお婆さんが妊婦の腹を割いて赤子を取り出し、妊婦にその子を抱かせて葬るということを聞いたんです。  そこから土偶を見ると、「妊婦」「異様な顔」(死者の顔)「腹を縦に割く」(赤子を取り出す)「バラバラにする」(この世で不完全なものはあの世で完全という思想)「丁寧に埋葬されている」という風に条件が当てはまる。こういうことをある媒体に書きましたら、福島の方から手紙を頂いて、福島の方では明治の頃までは、死んだ妊婦の腹を割いて胎児を取り出し、妊婦に抱かせて、しか

白川静「荘子の儒家批判」

「荘・老 ー 『荘子』・神々のものがたり」 「対談 ③ 孔子 狂狷の人の行方 梅原猛 × 白川静」 『別冊太陽 白川静の世界 漢字のものがたり』平凡社 梅 原  (前略)もう一つ面白かったのは、老子(ろうし)がですね、そういう殷の思想を受け継いでいるんじゃないかという先生の指摘ですけどね。これも大変面白かったですね。 白 川  それはね、儒教の批判者としては、荘周(そうしゅう)、荘子(そうし)ですね、荘子が初めに出て、老子というのは実は後なんです。 梅 原  普通逆に考えられますけど。 白 川  『老子』という書物は全部箴言(しんげん)で出来ている。全部韻(いん)をふんで、格言みたいなね。箴言集なんです。  荘周の学派は、どちらかというと儒教とやや近いんですけれども、うんと高級の神官のクラスですね。この連中はお祭を支配する司祭者ですから、古い伝統をよく知っている。神話なんかもよく知っている。そして古い氏族の伝統なんかもよく知っている。そういうことを知っておらんと祭は出来ませんからね。  だから同じ祭儀を行うにしてもね、儒家はそれの下層の方、荘周の一派はそれのうんと上層のね、神官の知識階級ですね。だから彼らのものの考え方はかなり哲学的であるし、ニーチェなんかに似とるとよく言われますね、あの文章は。そういう非常に思弁的なグループなんですね。そして彼らが儒家の思想を批判するのです。儒家の考え方というものはね、葬式とかそういう「もの」に即して具体的であり、現実的であるけれどもね、超越的な、絶対的なという風な、形而上的なものがないという。 梅 原  その通りです。 白 川  そういう立場から、儒家を批判する。そしてその批判する議論の仕方にね、単に論理を使うだけではない、いわゆる寓話を使う。その寓話の大部分が神話です。当時おそらくあったと思われる神話は、殆ど『荘子』三十三篇の中にある。儒教はね、神話は殆ど使わない。 梅 原  そうですね。ないですね。 白 川  彼らはその伝承にあずかっておらんのです。ところが荘周の一派はね、そういう神話の伝承を持っておって、そういう立場から古代の葬式を支配しておった。彼らからみると、儒家の考え方は相対的であり、思弁的でないと。もっと超越的な立場というものを持たなければ、思想というものは完成されないという、そういう立場からね、儒家の実践道徳的なそ

白川静「『孔子伝』_つくられた聖人像」

「和辻哲郎の『孔子』 ー 白川静の『孔子伝』」   「 対談 ③ 孔子 狂狷の人の行方 梅原猛 × 白川静」 『別冊太陽 白川静の世界 漢字のものがたり』平凡社 白 川  中国の思想史・精神史においては古典的な「聖人の系譜」というものがあって、従来はね、初めから聖人であることを認めた上で書くというやり方です。今の視点から見ている。  しかし僕は「儒教(じゅきょう)というものがどういう風に成立して来たのか、という社会思想史的なものとして捉えたかった。この思想そのものが、いかにして成立して来たのか、どうして孔子という人物が古典期を代表するような思想家となりえたのか、という問題を(『孔子伝』で)正面において考えてみた訳です。  大体、孔子自身が自分で聖人ではないと言うておるんですよ、人が自分をそう評価したと言うことを聞いてね。彼自身は宗教的な存在になろうという気持ちはないんですね。むしろ『論語』とか他の資料を見ていくと、彼自身は変革を望んで何回か試みようとした。そして挫折した。  もし彼が成功しておれば一人の政治家で終わっただろうと思います。ところが彼は最後まで失敗して、流浪の生活をして、惨憺たる生涯ですわな。だからそういう生涯自体が一つの思想になります。そしてあの儒教というような一つの思想体系を組み立てるようになった。つまりその人格的な求心力というものが、多くの弟子を招き寄せた。  儒教の思想というのは、実際にはその弟子たちによって構成されたのです。核心になるところは孔子が言ったことですが、それを儒教的な体系に組織したのは弟子たちです。これはキリスト教と一緒です。本人はそう大したことは言うておらん(笑)。(122頁)  歴史中に埋もれたであろう「一人の政治家」と、祀り上げられ歴史上の「聖人」となった孔子と、白川静が描く『孔子伝』は興味深い。多少の差こそあれ、伝説とは作るものであり、作られるものであろう。「本人はそう大したことは言うておらん」、次第に、真実の所在は、この辺りにあるかのような気がしてきた。  白川静に感化されてきた。私の白川伝説のはじまりである。「本人はそう大したことは言うておらん」とは、夢夢思ってはないが、自覚症状なく、自覚症状がないのは危険信号、と心得ている。

白川静「やっぱり、蘇東坡かな」

「蘇東坡と陶淵明 ー「白川静」は三人? 「対談 ① 神と人との間 漢字の呪力 梅原猛 × 白川静」 『別冊太陽 白川静の世界 漢字のものがたり』平凡社 梅 原  先生は、中国史の中に登場する人物では、誰がいちばんお好きですかね。 白 川  一人だけですか。ず〜っと歴史的にみていって… 梅 原  ええ。 白 川  やっぱり、蘇東坡(そとうば)かな。 梅 原  蘇東坡ですか、ああ。どういうところでしょうかね。 白 川  彼はね、非常に才能もあり、正しいことを言うとるんだけれどもねえ、何遍も失脚してね、海南島(かいなんとう)まで流されたりして、死ぬような目に遇(お)うて、それでも知らん顔してね、すぐれた詩を作り、文章を書き、書画を楽しんでおった。 梅 原  ああ、そこがいいんですか。陶淵明(とうえんめい)はどうですか、陶淵明は。 白 川  陶淵明はね、ちょっと悟り過ぎ。詩はいいですよ。 梅 原  ああ、詩はいいですね。 白 川  詩はいい。詩はいいけどもね、生き方としてはね、ちょっと悟り過ぎだしね。晩年どうしとったんか解らん。四十ぐらいまでは詩でよう解りますけどね、あと死ぬまで何しとったんかね、よう解らん。まあ、世に隠れておった訳でしょうね。 梅 原  今度先生の本読んで、先生はね、隠れた詩人だと僕は思ったなあ。だからね、先生の文にはどこか解りにくいところがあるんだな。やっぱり詩のようにね。ちょっとこう独自の文体ですよ。ちょっと気負った文章なんですよ、先生のはね(笑)。 白 川  (笑) 梅 原  洒落た文章なんですよ。最後はちょっとねえ、わざと解らないようにしてるんですよ。言葉の深い意味を捉えて、それを抑えて表面には出さずに文章を書く。先生は詩人だと思ったなあ。文章が美しいんだよ。 白 川  三(散)ぐらいでしょ(笑)。 (←「散人」の意?) 編集者 詩(四)人じゃなくて、三(散)ぐらい(笑)。 梅 原  いやあ、先生は三より上の四、やっぱり詩人ですよ(笑)。(36-37頁)  蘇東坡の「知らん顔」はいいですね。 「小林(秀雄)は、ランボーが詩を棄てた原因を、『面倒になった』からだといった。」 (若松英輔『叡知の詩学 小林秀雄と井筒俊彦』慶應義塾大学出版会 166頁) 陶淵明についての会話を聞いて、こんな一文が思い出された。また 、散人、詩人の順列は愉快である。 「やっ

高橋和巳「S教授と文弱な私」

「立命館と高橋和巳 ー 『捨子物語』と「六朝期の文学論」」 「対談 ① 神と人との間 漢字の呪力 梅原猛 × 白川静」 『別冊太陽 白川静の世界 漢字のものがたり』平凡社  立命館大学で中国学を研究されるS教授の研究室は、京都大学と紛争の期間をほぼ等しくする立命館大学の紛争の全期間中、全学封鎖の際も、研究室のある建物の一時的封鎖の際も、それまでと全く同様、午後十一時まで煌々と電気がついていて、地味な研究に励まれ続けていると聞く。団交ののちの疲れにも研究室にもどり、ある事件があってS教授が鉄パイプで頭を殴られた翌日も、やはり研究室には夜おそくまで蛍光がともった。内ゲバの予想に、対立する学生たちが深夜の校庭に陣取るとき、学生たちにはそのたった一つの部屋の窓明りが気になって仕方がない。その教授はもともと多弁の人ではなく、また学生達の諸党派のどれかに共感的な人でもない。しかし、その教授が団交の席に出席すれば、一瞬、雰囲気が変るという。無言の、しかし確かに存在する学問の威厳を学生が感じてしまうからだ。  たった一人の偉丈夫の存在がその大学の、いや少なくともその学部の抗争の思想的次元を上におしあげるということもありうる。残念ながら文弱な私は、そのようではありえない。((高橋和巳)『わが解体』)(37-38頁) (S教授とは、白川静教授のことです) 以下、最後の、 ◇「蘇東坡と陶淵明 ー「白川静」は三人? ◇ 「立命館と高橋和巳 ー 『捨子物語』と「六朝期の文学論」 ◇「長生の術 ー 百二十歳の道」 の三つのタイトルの下では、白川静さん、梅原猛さん、そして編集部の方も加わって、軽妙で洒脱な会話が交わされ、三者三様に楽しまれている。 「当時の立命は素晴らしかった」と言った梅原さんの発言が結論めいているが、九十一歳になられる白川さんへの労りの言葉に満ちており、本対談の掉尾を飾る、粋な計らいとなっている。

白川静「三千年前の現実を見ることができる」

「三つの文化 ー 文身、子安貝、呪霊」 「対談 ① 神と人との間 漢字の呪力 梅原猛 × 白川静」 『別冊太陽 白川静の世界 漢字のものがたり』平凡社 白 川  第一にはね、殷の文化と日本の文化、これは一つの東アジア的な「沿海の文化」として捉えることが出来るのではないかと思った。  殷の文化のいちばん特徴的なものは、まず文身(ぶんしん:入青のこと。ただ文身は刺青と違って描くだけ。刻さない。)の俗があること、これは殷以降にはありません。それから貝の文化。子安貝(こやすがい)ですね。 白 川  もう一つはね、呪霊(じゅれい)という観念ですな。シャーマニズム的なね。お祭が殆どそういう性格のお祭なんです。何々のタタリに対する祭、というね。 白 川  そしてこの三つが共通した基礎的なものとして、文化の底にある。だから日本と中国は十分比較研究に値する条件を持っとる訳ですね。それで殷の文化を深く調べてみたいと。 梅 原  その大きな違いは文字があったかないかですわな。日本では文字がない訳ですね。だから民俗学的な方法によって明らかにするしか仕様がない。それで柳田(國男)・折口(信夫・ おりくちしのぶ)がああいう形で日本の古代を明らかにしたんですけどね。 (中略)民俗が似ているんだから、もとより文字学の成果と柳田・折口の民俗学の成果と、大変似てくる訳ですね。 白 川   柳田・折口は事実関係だけでいく訳ですけど、僕は文字を媒介としてみる訳です。 梅 原  文字を媒介にしますと、正確な答が出て来る訳ですよね。(中略)柳田・折口の民俗学は年代を考えることが出来ない。そういう弱みを持っています。先生の学問は文字を媒介としているから、年代を特定することが出来る。 白 川   日本の場合には伝承という形でしか見られないけれども、向こうの場合には文字がありますからね、文字の中に形象化された、そこに含まれておる意味というものを、その時代のままで、今我々が見ることが出来る訳です。だから三千年前の文字であるならば、その三千年前の現実をね、見ることが出来る。 白 川  そう、象形文字であるからそれが出来るんで、これが単なるスペルだったら、見ることが出来ません。 「神聖王と卜占 ー 神と人との交通」 白 川  日本に文字が出来なかったのは、絶対王朝が出来なかったからです。「神聖王」を核とする絶対王朝が出来

白川静「『字書三部作』の偉業」

「ことばと文字」 白川静『漢字』岩波新書 「はじめにことばがあった。ことばは神とともにあり、ことばは神であった」と、ヨハネ伝福音書にはしるされている。」(2頁) 「文字は、神話と歴史との接点に立つ。文字は神話を背景とし、神話を承けついで、これを歴史の世界に定着させてゆくという役割をになうものであった。したがって、原始の文字は、神のことばであり、神とともにあることばを、形態化し、現在化するために生まれたのである。もし聖書の文をさらにつづけるとすれば、『次に文字があった。文字は神とともにあり、文字は神であった』ということができよう。(3頁)  また、「さらにつづけるとすれば」、「文字は埋もれていた。文字は白川によって蘇生し、文字は神の威光を回復した」「 ということができよう」。 『別冊太陽 白川静の世界 漢字のものがたり』平凡社 本誌には、以下の対談が掲載されている。 「対談 ① 神と人との間 漢字の呪力 梅原猛 × 白川静」 「対談 ② みえるもの・みえないもの “境”の不思議の出来事 岡野玲子× 白川静」 「対談 ③ 孔子 狂狷の人の行方 梅原猛 × 白川静」  白川静 91歳。  矍鑠(かくしゃく)としている。また、「狂狷の人」である。  それぞれの質問に対し、その都度必要十分な回答がなされる。寸分の隙もない回答に疲弊するばかりだった。休み、寝みの三日がかりの読書だった。  白川静への興味は尽きない。  一昨日、叔父の四十九日の法要後、 ◇ 白川静『孔子伝』中公文庫 を、珍しく書店で購入した。孔子への関心ではなく、 「第四章 儒教の批判者」 への興味である。 そして、今日中には、 白川静『回思 90年』平凡社ライブラリー が到着することになっている。 これで、白川静の本が、 ◇『別冊太陽 白川静の世界 漢字のものがたり』平凡社 ◇ 白川静 監修,山本史也 著『神さまがくれた漢字たち』理論社 ◇ 白川静『漢字』岩波新書(2冊) ◇ 白川静 『初期万葉論』中公文庫 ◇ 白川静 『漢字百話』中公文庫  計 7(8)冊になった。お目当ては、「神々」のことである。 「『尹』が見えました ー 神が書かせ給うた…」 「対談 ② みえるもの・みえないもの “境”の不思議の出来事 岡野玲子× 白川静」 白 川  そんなもの(神との交通を司る者「尹」)が憑(つ)いとるんかな。僕には

白川静「文字は神であった」

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「ことばと文字」 白川静『漢字』岩波新書 「はじめにことばがあった。ことばは神とともにあり、ことばは神であった」と、ヨハネ伝福音書にはしるされている。」(2頁) 「文字は、神話と歴史との接点に立つ。文字は神話を背景とし、神話を承けついで、これを歴史の世界に定着させてゆくという役割をになうものであった。したがって、 原始の文字は、神のことばであり、神とともにあることばを、形態化し、現在化するために生まれたのである。もし聖書の文をさらにつづけるとすれば、『次に文字があった。文字は神とともにあり、文字は神であった』ということができよう。(3頁)  注意してほしいのは、白川静のいう神とは、キリスト教の「神」ではなく、神話に登場する「神々」のことである。白川は、「神々」を「神」に仮託している。 「一九七〇年の出来事」 『別冊太陽 白川静の世界 漢字のものがたり』平凡社 一九七〇年、そのことは、広く世間に知られることとなった。 [ (サイ)]の発見である。 岩波新書としてその年、出版された『漢字』という一冊の本は衝撃的な のデビューとなる。 は一九七〇年を遥かに遡る時代に既に発見されている。 発見者はもちろん「白川静」。 古代中国文学者・白川静は、今はあまりにも「漢字」で有名である。 白川静は或る日、常連であった古本屋で一冊の本と出会う。 『字説』(呉大澂(ごだいちょう))。この本との出会いから時を経ずして、 白川静の甲骨文・金文の研究が始まり、 の大発見となる。 とは? ー そう、ここで語る とは、 今まで「口(くち)」と考えられ、それによって解釈されていた “漢字”を 「口は口にあらず、祝詞即ち神への申し文を入れる “器”である」と説いたことである。 この発見により「口」では解けなかった「漢字の生い立ち」が、 スルスルと、まるでもつれた糸がほぐれるように解けていった。(6-7頁)  ドラマチックで華麗な文章に仕上がっている。  しかし、 『漢字』の最初に出てくる [ ]の説明は、下記のように通り一遍のものである。 「わが国では、文字のことをナといった。漢字は真名(まな)、カナは仮名である。名の上部は肉の省略形で祭肉、下の 形は祝詞を入れる器で、このとき祝詞を奏上して名を告げる。これもまた加入式である。」(20頁)  また、加入式については、 「子が生まれて一定の期間を過ぎる

「立命館大学 白川静記念 東洋文字文化研究所_白川フォント」

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 一昨夜ブログを書くために、[ (サイ)]の字を探した。しかし、[ ]の字は見当たらず、私がいま使用している[ ]は、画像である。  検索していると、 ◇ 「立命館大学 白川静記念 東洋文字文化研究所」 ◇ 「白川フォント」 ◇ 「白川フォント ダウンロード」 のサイトが見つかった。歩けば棒に、ということか。 以下、 「kanjicafe」 さんからの引用である。 「2016年12月、立命館大学白川静記念東洋文字文化研究所が、コンピューター上での利用が困難であった甲骨・金文などの古代文字を、Microsoft Word などの一般的な文書作成ソフトで簡単に利用できるようにする文字フォント「白川フォント」を発表しました。  同研究所ホームページによると、「白川フォント」に収録されている古代文字は、常用漢字(2136字)・人名漢字(650字)の中で古代文字が判明している漢字を対象としており、古代文字の全収録数は4391字だそうです。これらのフォントは無償で公開されており、簡単にパソコンにダウンロードすることができます。  また、同ホームページにある「検索システム」を使えば、入力した漢字の文字列から古代文字を表示させたり、入力した漢字一字から古代文字の画像を検索することができます。」  早速私はインストールして恩恵に欲している。文字を意匠として楽しんでいる。 「文字は神であった」。文字は神々しかった、というのは当然の帰結であろう。 粋なはからいである。ご苦労がしのばれる。

白川静「[サイ]の発見」

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2021/02/11、P教授から、 ◇ 『別冊太陽 白川静の世界 漢字のものがたり』平凡社 の画像が添付されたメールが届いた。 表紙には、 文字があった。 文字は 神とともにあり、 文字は 神であった。 と書かれていた。  ドトールコヒーでおくつろぎの様子だった。政治学者にして白川静とは粋人 である。  見栄えのする表紙だった。  返信をする前に、Amazon に注文した。  そして、昨日(2021/02/15)、到着した。 また、裏表紙には、 白川静の日常。 時間は静かに流れ、 淡々と一日を終える。ただそれだけ。ただそれだけ。 それだけを繰り返し、生み出される仕事の確かさ。 また、明日。 また、あした。 と書かれている。 「泣く子も黙る『漢字』の泰斗の学問人生」 白川静著『回思九十年』(平凡社) 狐『日刊ゲンダイ匿名コラム 水曜日は狐の書評』ちくま文庫  白川静を読むには覚悟を要する。身のほどをわきまえないと、あっという間に投げ出したくなる。  当書評 には、吉本隆明の文が引用されている。 「 白川静、一九一〇年生まれ、字書三部作『字統』『字訓』『字通』によって、また『孔子伝』などの名著によって、泣く子も黙る文字学、古代学の泰斗である。  かつて吉本隆明もこう書いた。「彼の主著『説文新義』の数冊は、わたしの手元にあるが、いまだ手に負えないでいる。(略)かくの如き学徒は乏しいかな。彼の仕事を遠望するとき、流石に、少し泣きべそをかきそうになるのを、禁じえない」 (2000・5・24) (116-117頁)  吉本隆明にしてこのありようである。理解のゆきとどかない ところには目をつぶって、とにかく通読することにする。 白川静 監修,山本史也 著『神さまがくれた漢字たち』理論社 また、用意が必要になる。 白川 静「序文」 「第一章 初めの物語」 「第二章 からだの物語」 「第三章  (さい)の物語」 「序文」と各章を、 「漢字の「物語」がより克明に描かれるための準備は、ここをもって万全に整いました。」(70頁) と書かれた一文に至るまで熟読する。  準備をおろそかにして、徒手で白川静と対峙するのは向こう水である。  ちなみに、本書の内容紹介には、 「漢字を見る目を180度変えた、“白川文字学”のもっともやさしい入門書!」 との一文がある。理論社の児童書である。 「はじめに

小林秀雄「絵を見るとは,一種の退屈に堪える練習である_実践編」

小林秀雄『偶像崇拝』 小林秀雄『モオツァルト・無常という事』 新潮文庫 『偶像崇拝』は、多くの話題から成っている。絵画に題材をとり、惜しげもなく展覧された「作品群」は、どれ一つとってみても秀逸で、瞠目するばかりである。 「絵を見るとは一種の練習である。練習するかしないかが問題だ。私も現代人であるから敢えて言うが、絵を見るとは、解っても解らなくても一向平気な一種の退屈に堪える練習である。練習して勝負に勝つのでもなければ、快楽を得るのでもない。理解する事とは全く別種な認識を得る練習だ。現代日本という文化国家は、文化を談じ乍(なが)ら、こういう寡黙(かもく)な認識を全く侮蔑(ぶべつ)している。そしてそれに気附いていない。」(218頁)  小林秀雄の以上の文章を引いたのは、2017/07/21のことである。その際には、 「 けっして他人事(ひとごと)ではなく、小林秀雄の達観である。達見である。」 と書き添えておいた。しかし、その後、 「 解っても解らなくても一向平気な一種の退屈に堪える練習」 は顧みられることなく、なおざりになっている。本を開くのがめんどくさいのである。  例えば、白洲正子は、 ◇ 白洲正子『現代日本のエッセイ 明恵上人』講談社文芸文庫 に、 「私は何かの本からその写真(高山寺の「仏眼仏母(ぶつげんぶつも)像」)を切りぬいて、机の前にはりつけておいたのですが、実物は長いこと見る機会がありませんでした。」(50頁) と書いている。  また、小林秀雄については、 ◇ 白洲信哉 [編]『小林秀雄 美と出会う旅』(とんぼの本)新潮社 に、 「小林がこの絵(ゴッホ《鴉のいる麦畑》)を見たのは、戦後間もない昭和二二年三月、上野で開催されていた「泰西名画展覧会」でのこと。しかし、小林が感動したのは実物ではなく、「見事な複製」だった。小林はこの絵に強く惹かれ、複製画なら手に入れられるだろうかと、しばらくはそのことばかり考えて「上の空」だったという。そんな小林の様子を聞きつけた宇野千代が、どこかで同じ複製画を手に入れ、小林の元に届けてくれた。(左頁)  念願の画を手にした小林の心の中には、「もう一つの欲望」がとりついていた。  「あの巨きな眼は一体何なのか、何んとかして確かめてみたいものだ」。  《鴉のいる麦畑》との出会い、「心に止まって消えようと」しない感動が、小林に大著「

土門拳「聖林寺 十一面観音立像蓮華座」

聖林寺の十一面観音立像については、 ◇ 白洲正子『十一面観音巡礼』講談社文芸文庫 の口絵の、右側面から撮られた白黒の写真が圧巻である。撮影者は不明である。「単行本」や「愛蔵版」では同じ構図のカラー版 が表紙を飾っている。  闘い終え、満身に創痍を負った勇者が、傷を癒すために深い瞑想に入っているかのように見える。表情は厳しく体躯は剛健そのものである。また、頭上の化仏(けぶつ)は、勇士に捧げられた守護神さながらである。  2019/10/23 に聖林寺を訪れた。 はじめての拝観だった。 観音堂には私ひとりしかおらず、何時間かを過ごした。高邁な御姿を畏まり仰ぎ見ていた。繊美な指の表情に目を凝らしていた。 しかし、 ◇ 土門拳『古寺を訪ねて 奈良 西ノ京から室生へ』小学館文庫 に掲載されている、 ◆「聖林寺 十一面観音立像蓮華座(れんげざ)詳細」 の記憶がすっぽり抜け落ちている。細部ではなく蓮華座全体の記憶がない。 「上を上へと指向し幾重にも重なり合った花弁は、蓮華座を嵩高にしている。肉薄の花弁は、黄葉した葉を寸分のすき間もなく生け たかのような格好である」 (112-113頁)  いくら記憶は定かではない、とはいえ、重症である。収束を待って聖林寺へ、そして本堂から神と崇められている三輪山をと思っている。

土門拳「東大寺 毘盧舎那仏」

「21 日本と仏教」 司馬遼太郎『この国のかたち 一』文春文庫   仏教は、飛鳥・奈良朝においては、国家統一のための原理だった。『華厳経(けごんぎょう)』は宗教的というより哲学的な経典で、その経典を好んだ聖武(しょうむ)天皇が、この経典に説かれている宇宙の象徴としての毘盧舎那仏(びるしゃなぶつ)(大仏)を尊び、「国の銅(あかがね)を尽くし」て鋳造した。天平(てんぴょう)感宝元年(七四九年)、この天皇が東大寺大仏の前で「三宝(みほとけ)の奴(やっこ)」とみずからを規定して拝跪(はいき)したことほど、奈良朝における仏教と国家の関係を感動的に表現した光景はない。(245頁) 「東大寺と平城京 東大について」 土門拳『古寺を訪ねて 斑鳩から奈良へ』小学館文庫  当文庫には、 「盧舎那仏坐像頭部」 「 盧舎那仏坐像左手」 「盧舎那仏坐像蓮弁毛彫(るしゃなぶつれんべんけぼり)」 の、三葉の毘 盧舎那仏の写真が載っている。  土門拳が大仏さまの大きさを、「振り仰いで見ると、五丈三尺五寸という大きさの螺髪(らほつ)あたりに霞がたなびく感じに想いをめぐらされる」(94頁)と表現しているのはおもしろい。  相貌の凹凸によって 縁取られた細線は高邁な表情を映し出し、白毫(びゃくごう)、螺髪ともに明らかである。また、指は衆生に救いの手を差し伸べているかのようである。さらに、毘盧舎那仏が黄金に輝いていた当時の名残である蓮弁の毛彫には、息づまるような芬々とした「天平の匂いの凄さ」(95頁)が認められる。  「頭部」と「左手」を撮った二枚の写真 には、物を透き通しにする光が差しているかのような明るさがある。「華厳」が描く、光が十重二十重に交錯する世界(「光明遍照」)の中心に坐し、十方に光明を放つ毘盧舎那仏を 思わせる上品な写真に仕上がっている。  大仏さまにこれ以上の尊さを感じたことはなかった。部分が全体を凌ぐことがあることを知った。

土門拳「考える臍」

「薬師寺 金堂 日光菩薩立像腹部」 土門拳『古寺を訪ねて 奈良西ノ京から室生寺へ』小学館文庫  まるまるとふくらんだ下腹、指を突っ込んでくすぐりたくなるような大大としたお臍(へそ)、ここには飛鳥、白鵬の仏像には見られなかった肉体への目ざめが見られる。仏教流伝以来三百年、もはや仏菩薩を神秘的な「蕃神(ばんしん)」として、遠くから畏るおそる伏しおがむ段階は終ったのである。仏菩薩の存在そのものを信ずる心が、その像容の上にも、より確かな触覚的なものを期待しないではいられない欲求を、信仰する側に芽生えさせたことがわかる。(34頁) 「向源寺 十一面観音立像腹部」 土門拳『古寺を訪ねて 東へ西へ』小学館文庫  薬師寺金堂日光菩薩(やくしじこんどうにっこうぼさつ)の臍(へそ)には、指を突っ込んでくすぐりたくなるような触覚的な要素が芽生えていたが、そこにはなお古代的な、大々とした造形感覚が息づいていた。  この十一面のそれになると、そういう呑気(のんき)な、古代的な造形感覚は影をひそめてしまっている。一層実人(じつじん)的、写実的になったことはもちろんだが、それ以上に鋭い思想性が脈打つようになった。透鑿(すきのみ)のこまやかな刀法がうかがえるこの臍は、いわば考える臍である。(132-133頁) 「向源寺」はいま「渡岸寺(どうがんじ)」と呼ばれている。拝観時にいただくリーフレットにも「渡岸寺」と記されている。  幾度となく「渡岸寺」を訪ねた。そのたびに何度となく観音さまのお臍を拝見しているはずだが、いっこうに記憶にない。  昨夜 臍が語る深遠な仏教史のお話をはじめてうかがった。うかつだった。  プロ、アマを問わず、カメラマンたちがファインダー越しに見つめているものが気になる。傍にお邪魔することも、時には尋ねることもある。訓練された眼の行方が気になる。  臍は口ほどに物を言った。仏師に手抜かりはなかった。土門拳のお手柄である。  高邁なお話に耳を傾けながら、我が臍はと眺めれば、曲がっているのが目につくばかりで、いたって脳天気な姿をさらしていた。私がみごとに反映されていた。

土門拳「三徳山 三仏寺 投入堂」

「三徳山(みとくさん)三仏寺(さんぶつじ)投入堂 (なげいれどう) 」については、以下の公式サイト、 ◇ 「三徳山 三佛寺」 をご覧ください。また、ぜひ動画をご覧ください。すてきです。 「西仏寺と西国 投入堂登攀記」 土門拳『古寺を訪ねて 東へ西へ』小学館文庫  気の遠くなるような急傾斜な地形に即応する懸造(かけづくり)の構造法をとり、同時に空から降ってきたような、あるいはまた、空からエイッとばかりに岩の窪みに投げ込んだように、天空海闊(てんくうかいかつ)な設計で投入堂は建てられている。  細身の角材を、さらに大面取(おおめんど)りして、細く軽快に見せている柱、垂木(たるき)、 軒桁(のきげた)など、懸造の高架建築は、美しさは日本一といってよく、悠然たる断崖に張りつけられている発想自体、これをつくった人々の天才的な閃(ひらめ)きを感じさせるものである。  木造建造物を水や湿気から守るために、急傾斜な地形に即応する懸造の構造法をとる。 (中略) 昔は堂舎三十八宇、寺三千軒と伝えられる三仏寺には、懸造の高架建築はさらにいくつもあったことであろう。三仏寺に拠る平安時代の初期修験者集団は、いわば懸造の高架建築に偏執狂的に憑かれていたのではないか。 (140-141頁)  元結掛堂(もとゆいかけどう)の岩端をまわると、眼前に数十メートル先に豁然と奥の院投入堂が姿をあらわす。あっと息をのむような美しさである。奈良、京都と古寺巡礼を続けて、数十の名建築を見てきたが、投入堂のような軽快優美な日本的な美しさは、ついに三仏寺投入堂以外には求められなかった。わたしは日本第一の仏像は? と問われれば、銅造ならば薬師寺東院堂(やくしじとういんどう)の聖観音立像(しょうかんのんりゅうぞう)、木造ならば神護寺金堂(じんごじこんどう)の薬師如来(やくしにょらい)立像をあげることは予(かね)てからの持論だが、日本第一の建築は? と問われたら、三仏寺投入堂をあげるに躊躇しないであろう。ほかに塔ならば薬師寺三重塔、楼閣ならば平等院鳳凰堂をあげなければならないが、三重塔や鳳凰堂は見飽きないともかぎらない。しかし簡素な素木造(しらきづくり)の投入堂は、周囲の懸崖の季節、時間の変化と相まって、見飽きる虞(おそ)れはなさそうである。事実、この後、春夏秋冬、季節ごとに五度も六度も登って、登れば必ず数時間を投入堂の

「古代人の思考はよく『古代人』が聞き分ける」

中沢新一『古代から来た未来人 折口信夫』ちくまプリマー新書  南島で出会った精霊たちは、折口の考えてきた「古代人」の思考そのままの現れ方をした。島の人々は「あの世」が海の彼方(かなた)のニライカナイにある、と考えていた。ニライカナイとは「根の島」という意味で、そのまま「魂のふるさと」「魂の根源の場所」を意味していた。人が亡(な)くなると、その魂はニライカナイに戻っていく。またそこは生命の根源の場所で、ニライカナイにつながっていないと、「この世」は生命の輝(かがや)きをなくしていく。しかし、生きている人間はめったなことでは、この海の彼方の「あの世」に行くことはおろか、触れることすらできない。だから島の人々は、「あの世」からの来訪者である「まれびと」の到来(とうらい)を待ち望んでいるのである。  仮面を着装し、植物で全身をおおった精霊が、いかにも「まれびと」らしく、一年に一度だけの決まった日に、村の裏にある洞窟(どうくつ)や森の奥から、島の人々が緊張(きんちょう)しながら待ち受ける神聖な広場にあらわれてくる。ざわざわざわざわとからだを揺(ゆ)すり、踊(おど)るように舞(ま)うように、「まれびと」が目の前にあらわれると、人々の興奮は頂点に達し、精霊と一体になった人々の心のなかには、「あの世」との通路がひらかれる。生きている者と死者たちの霊とは一体となり、過去と現在と未来がひとつになったような、不思議な時間の感覚があたりを包み込む。(47-50頁) ◇ まれびと:折口信夫の用語。海のかなたの異郷(常世)から来訪して、人々に祝福を与(あた)えて去る神。  折口信夫は「目撃」したのである。そして、 「わたしはいまの世で成功する者とはなりえない人間だ。なぜならわたしは精霊とともに生きる一人の古代人であるのだから」(60頁) と、「一人の古代人」を自任する折口は、古代人さながらに霊気に当たり、古代人さながらに精気に浸ることによって、すべてを身にひき受けたのである。 「まれびと」は折口信夫の詩人的な幻想(げんそう)などではなく、たしかに実在していたのだ。  沖縄諸島への旅から戻った折口信夫は、矢継(やつ)ぎ早(ばや)に、日本の文学と芸能の「発生」を論じる、重要な論文を発表していった。「まれびと」はこうして、日本人の神観念の原型をしめしているばかりではなく、折口信夫の学問と思想の全体を

「明恵上人における徒者(いたづらもの)」

白洲正子『現代日本のエッセイ 明恵上人』講談社文芸文庫  「高山寺に住んでからの明恵は、変ないい方ですが、だんだん透き通って行くように見えます。」(124頁)  明恵上人が栂尾高山寺に移ったのは建永元年(1206)、34歳のときのことです。  以下、明恵上人の言葉です。  『仏法に能く達したりと覚しき人は、いよいよ(くの字点)仏法うとくのみなるなり』(遺訓) (124頁)  『我れ常に志ある人に対していふ。仏になりても何かせん。道を成じても何かせん。 一切求め心を捨てはてて、徒者(いたづらもの)に成り還りて、ともかくも私にあてが ふことなくして、飢え来たれば食し、寒来れば被(かぶ)るばかりにて、一生はて 給はば、大地を打ちはづすとも、道を打ちはづすことは有るまじき』 (125頁)  『生涯此の如く徒者に成り還らば豈(あに)徒(いたづら)なることあらんや』(遺訓) (125-126頁)   仏は仏であってさえ、仏法は仏法であってさえ、また道は道であってさえ ならない。そして、それらを方便であると抛擲した明恵の境地や、無作為、無頓着、またその無関心ぶりは爽快である。  「道元の仏法は、彼一人のものに終ったのです。同じことが、明恵についてもいえます。『仏法に能く達したりと覚しき人は、いよいよ(くの字点)仏法うとくのみなるなり』という極限まで行った人間には、宗旨ははおろか、仏法もなく、一人の後継者もつくらなかった。わずかに傍に仕えた弟子達が、師を偲んで、その生前の姿を伝えただけで、世間的な「仕事」とか「事業」と呼ばれるものは何一つ遺してはいない。そうかといって、単なる聖(ひじり)でもない。しいていえば、彼が此世に遺したのは、人間的な魅力という、茫然とした一事につきる。もし、仏が宇宙の象徴であり、釈迦がその具体的な現われなら、ただ存在するだけで満ち足りた明恵上人は、正しく「釈尊の遺子」にふさわしい生涯を送ったといえるのです。」(107頁)  なお、173項には、 「すき通った精神は」という表現がみられます。 「明恵には彼と我、昔と今の境がまったくない。すき通った精神は、時に肉眼では見えないものまで見てしまったようです。」  そしてこの後には、二つの興味深いエピソードが紹介されています。彼我の境も、今昔も彼此の領域も曖昧になった明恵上人の「すき通った精神」に映った景色とそれに対

TEWEET「立春の日に、陣中お見舞い申し上げます」

「学会年報の論文」の執筆もいよいよ佳境に入ったことと拝察しております。  今日は立春ですね。昨年にひき続き春の胎動は、コロナ禍の蔓延下に、また日々報道される目に余る政争を前にかき消されがちですが、地球の運行がコロナ禍、また人事に邪魔だてされるはずもなく、暗雲立ち込めるうちにも、その胎動を聞き分けようと耳を澄ませています。 緊急事態宣言が延長されましたね。 くれぐれもお大事になさってください。 ご自愛ください。 FROM HONDA WITH LOVE. 長らくの音信不通、申し訳なく思っております。 先週の金曜日からずいぶん楽になりました。 長い間雲隠れしていました。 いよいよお薨れか、と思ったりもしていました。 一陽来復。 プー太郎めは、明恵上人に倣いて、「徒者(いたづらもの)」になることを決心しました。 修行です。修養です。逆行です。顛倒です。 ご心配深謝しております、とYさんにはお伝えしてください。 早々のご丁寧なご挨拶、どうもありがとうございました。 くれぐれもご自愛ください。 FROM HONDA WITH LOVE. 追伸:大いに筆をふるってくださいね。