司馬遼太郎「鎌倉武士興亡のみち 三浦半島」
令和元年、はじめての読書です。
「鎌倉武士興亡のみち 三浦半島 [神奈川県]」
芸術新潮編集部 [編]『司馬遼太郎が愛した「風景」』(とんぼの本)新潮社
鎌倉幕府の時代は、血なまぐさい。
武士という、京から見れば “奴婢(ぬひ) ” のような階層の者が、思いもよらずに政権を得た。馴れぬこの政権に興奮し、結局は、他を排するために、つねに武力を用いた。
幕府樹立後、北条氏と権勢を二分した三浦氏は、頼朝の死後、北条氏の策謀によって徹底的に討滅される。三浦氏は当時の関東武士団の例にもれず、〈倫理に代わるべき廉恥という感覚を濃厚にもち、その生死はいかにもあざやかだった〉。北条氏との激しい戦いを繰り広げた末、負けを覚悟すると、一族で頼朝の墓所法華堂に集まった。
法華堂にあつまったのは……あわせて五百人だった。
……堂内の正面に頼朝の画像をかけ、べつに騒ぐことがなく、追憶談なども出て、おだやかだったという。時がきて五百余人がいっせいに腹を切った。
それから八十六年後の元弘三年(一三三三)、新田義貞によって、鎌倉幕府は攻め滅ぼされる。ときの執権、北条時高は人望がなかった。それでも鎌倉方は奮戦した。ついに高時が葛西ヶ谷の東勝寺に籠もり、自害したとき、高時に従って、切腹した者は八七O人ほどだったという。
(中略)
昭和二十八年に行なわれた東大の発掘調査で、このときの戦死者と思われる骨が材木座からみつかった。わずか六十坪の土地から九一O体の骨が発掘されたという。
鎌倉で語るべきものの第一は、武士たちの節義というものだろう。ついでかれらの死についてのいさぎよさといっていい。こればかりは、古今東西の歴史のなかできわだっている。
が、それらは、博物館で見ることはできず、雨後、山道でも歩いて、碁石よりも小さなセピア色の細片でもみつけて感慨を持つ以外にない。(49-52頁)
武士という、京から見れば “奴婢(ぬひ) ” のような階層の者が、思いもよらずに政権を得た。馴れぬこの政権に興奮し、結局は、他を排するために、つねに武力を用いた。
幕府樹立後、北条氏と権勢を二分した三浦氏は、頼朝の死後、北条氏の策謀によって徹底的に討滅される。三浦氏は当時の関東武士団の例にもれず、〈倫理に代わるべき廉恥という感覚を濃厚にもち、その生死はいかにもあざやかだった〉。北条氏との激しい戦いを繰り広げた末、負けを覚悟すると、一族で頼朝の墓所法華堂に集まった。
法華堂にあつまったのは……あわせて五百人だった。
……堂内の正面に頼朝の画像をかけ、べつに騒ぐことがなく、追憶談なども出て、おだやかだったという。時がきて五百余人がいっせいに腹を切った。
それから八十六年後の元弘三年(一三三三)、新田義貞によって、鎌倉幕府は攻め滅ぼされる。ときの執権、北条時高は人望がなかった。それでも鎌倉方は奮戦した。ついに高時が葛西ヶ谷の東勝寺に籠もり、自害したとき、高時に従って、切腹した者は八七O人ほどだったという。
(中略)
昭和二十八年に行なわれた東大の発掘調査で、このときの戦死者と思われる骨が材木座からみつかった。わずか六十坪の土地から九一O体の骨が発掘されたという。
鎌倉で語るべきものの第一は、武士たちの節義というものだろう。ついでかれらの死についてのいさぎよさといっていい。こればかりは、古今東西の歴史のなかできわだっている。
が、それらは、博物館で見ることはできず、雨後、山道でも歩いて、碁石よりも小さなセピア色の細片でもみつけて感慨を持つ以外にない。(49-52頁)