「教育の死と再生」
公立高入試は、範囲の限られたテストです。数学や理科のある分野については、多少の受験テクニックが必要となりますが、それとて学習指導要領内での出来事であって、中学校で行われる定期テストと同様、明確に出題範囲の示されたテストです。
範囲の限られた試験ですから、細大漏らさず勉強することが大切になってきます。たかが知れた範囲ですから、細大漏らさず勉強することはさして難しいことではありません。
しかし、ひとりでは、細大漏らさずといった勉強ができないために、入試数日前にしてなお、教科書を一頁ずつ繰って確認するという内容の直前対策授業を行わざるをえず、情けないかぎりです。
教科書を読まない、読もうとしないいまの大多数の子どもたちは、自身の手では細も大もすくい上げることができず、みじめです。そんな子どもたちとおつき合いせざるをえない私は、悲惨です。「転ばぬ先の杖はつかない」ことを標榜してはじめた学習塾ですが、いつしか初心は潰え、いまでは見る影もありません。このあたりが引き際かと考えています。
暉峻康隆先生の『女子大生亡国論』に倣っていえば、学習塾・予備校・各種専門学校等々に準ずる民間教育(?)機関が、また塾を恃み、塾に任せることをよしとし、おざなりの授業でお茶をにごす公教育の現場の先生方の体質が、ついにはこの国を亡すことになる、と私は考えています。暉峻先生の「亡国論」に比すれば、私の「亡国論」などは穏健派に組みするものです。自覚なく内省なく、したり顔をしている現場の先生方を想像すると、総毛立ちます。教育をなんと心得ているのでしょうか。自らの教育に対する矜持はないのでしょうか。
「死と再生」。「再生」には「死」を経ることが不可欠ですが、この先現行以上の地獄図絵のような体を経なければ、教育の「再生」はありえないのでしょうか。底を打ち、「再生」へと向かうとき、蘇生すべき体力が残存されているのでしょうか。絶えることにならないことを祈るばかりです。
「武士道と云ふは死ぬ事と見付けたり」。狭隘な自己保身、子どもたちを喰いものにした下卑た教育とは、もうこのあたりで訣別して、潔く「再生」へと舵を切るべきです。それには、身を投げ出す覚悟、「死」を賭す覚悟が必要です。「死」なきところに教育の「再生」はありえません。
範囲の限られた試験ですから、細大漏らさず勉強することが大切になってきます。たかが知れた範囲ですから、細大漏らさず勉強することはさして難しいことではありません。
しかし、ひとりでは、細大漏らさずといった勉強ができないために、入試数日前にしてなお、教科書を一頁ずつ繰って確認するという内容の直前対策授業を行わざるをえず、情けないかぎりです。
教科書を読まない、読もうとしないいまの大多数の子どもたちは、自身の手では細も大もすくい上げることができず、みじめです。そんな子どもたちとおつき合いせざるをえない私は、悲惨です。「転ばぬ先の杖はつかない」ことを標榜してはじめた学習塾ですが、いつしか初心は潰え、いまでは見る影もありません。このあたりが引き際かと考えています。
暉峻康隆先生の『女子大生亡国論』に倣っていえば、学習塾・予備校・各種専門学校等々に準ずる民間教育(?)機関が、また塾を恃み、塾に任せることをよしとし、おざなりの授業でお茶をにごす公教育の現場の先生方の体質が、ついにはこの国を亡すことになる、と私は考えています。暉峻先生の「亡国論」に比すれば、私の「亡国論」などは穏健派に組みするものです。自覚なく内省なく、したり顔をしている現場の先生方を想像すると、総毛立ちます。教育をなんと心得ているのでしょうか。自らの教育に対する矜持はないのでしょうか。
「死と再生」。「再生」には「死」を経ることが不可欠ですが、この先現行以上の地獄図絵のような体を経なければ、教育の「再生」はありえないのでしょうか。底を打ち、「再生」へと向かうとき、蘇生すべき体力が残存されているのでしょうか。絶えることにならないことを祈るばかりです。
「武士道と云ふは死ぬ事と見付けたり」。狭隘な自己保身、子どもたちを喰いものにした下卑た教育とは、もうこのあたりで訣別して、潔く「再生」へと舵を切るべきです。それには、身を投げ出す覚悟、「死」を賭す覚悟が必要です。「死」なきところに教育の「再生」はありえません。