司馬遼太郎「大蒙古を撃退したささやかな “鉄壁” 元寇防塁」

令和元年、はじめての読書です。
「大蒙古を撃退したささやかな “鉄壁” 元寇防塁  [福岡県博多市]」
芸術新潮編集部 [編]『司馬遼太郎が愛した「風景」』(とんぼの本)新潮社
 元軍は城楼のような大船九百隻でもって博多湾をうずめている。上陸軍は二万人であった。迎え討った九州の武士たちは、せいぜい一万騎足らずであったであろう。(「蒙古塚・唐津」『街道をゆく 十一』)

 この第一次蒙古襲来が、どうやら破滅的事態にならずに済んだのは、元軍の指揮官たちが内部対立の末に撤退を決め、帰国途上の艦隊が台風に襲われたお陰である。元軍の圧倒的な軍事力に衝撃を受けた鎌倉幕府はその後、二度目の来寇に備え博多湾岸の二十キロメートルにわたり石塁を築造。元弘防塁である。
(中略)
 郷土史家の説明を受け、石塁を眺めながら、司馬さんはこうつぶやく。

 たかが二メートルの変哲もない石塁を築いて世界帝国の侵略軍を防ごうとしたのはまことに質朴というほかない。
(中略)
 今津あたりは、流れついた元兵の水死体で浜がうずまったという。……もし蒙古塚とすれば、北アジアの草原にうまれた青年も、朝鮮半島や、湖沼の多い江南の野からモンゴル人に強制されてやってきたひとびとの骨もむなしくそこにうずまっているにちがいない。
 
 この〈たったひとりのフビライの意志と権力によって強行された〉二度にわたる日本侵略の企ては、結局、日漢朝蒙の四民族に合計十万からの死者を出し、誰にも何の益ももたらすことのないまま、終わったのである。(30-31頁)