「京都往還_墓参編」

2022/05/30
 21:30 小雨のそぼ降るなか出立した。

◆「養老 SA(下り)」
 車中泊。

2022/05/31
◆「Hotel & Resorts NAGAHAMA(喫茶室)」
 琵琶湖は、誕生したばかりのような明るさをたたえていた。
◆「渡岸寺(どうがんじ)」


 今回もまた観音さまに捕まった。身動きのできないままに、息を殺してじっとしていた。
 御本堂と観音堂とをつなぐ廊下の壁面には、土門拳の4枚の「十一面観音像」の写真が掲げられている。真に迫るものであり、凄味さえ感じられる。
◆「一休亭 彦根本店」
にて、「近江牛サーロインステーキ(塩)ハーフ」をいただく。清潔な店だった。
 今回にかぎっては、少しはまともな食生活をしようと心がけた。
◆「PIERI MORIYAMA」
 びわ湖大橋東詰に位置する、ショッピングモールの一角にある、
◇「守山湯本 水春」
にて入浴。
◆「セブンイレブン 琵琶湖大橋西口店」
 車中泊。

2022/06/01
◆「知恩院」
 新春には山本空外を知り、法然、山崎弁栄(やまざきべんねい)にふれた。その後 間もなく、岡潔、湯川秀樹の名を目にした。空外上人、岡潔博士は弁栄上人に、また湯川秀樹博士は晩年、空外上人に帰依した。
 こうして私の「知恩院」行きが決定した。
 まず、「三門」を見上げて圧倒された。「阿弥陀堂」を参拝し、その後「御影堂」で、御回向の読経に身を任せていた。御導師様の緋色の衣に純白のかぶりものは鮮やかだった。同唱十念だけご一緒させていただいた。御回向は絶えることなく続いた。

「知恩院 三門」

「知恩院 御影堂」

 山本空外上人と湯川秀樹博士のお墓は、背中合わせに並んでいた。しばらくの間 墓参に来られた形跡はなく、少し整えてきた。空外上人の墓石(ぼせき)に刻まれた「南無阿弥陀仏」の六字の名号は、自書されたものである。
◆「知恩院 和順会館」
◇「花水庵」
にて、精進料理「花水」をいただく。また、
◇「カフェ かりん」
にて、「知恩院ブレンド コーヒー」をいただいた。
◆「知恩院」
 再び、「御影堂」へ読経を聞きに行った。有り難く、尊く、心地よかった。下手に意味など、知らぬが仏だと思っている。
◆「八坂神社(祇園さん)」
「知恩院」から「清水寺」まで歩いた。
「八坂神社」では、「水神社祭」が行われていて、屋台も出てにぎやかだった。御本殿だけお参りして、先を急いだ。
◆「京都霊山 護國神社」
「産寧坂(三年坂)」を左に折れ、「維新の道」を歩いた。御本殿を参拝し、坂本龍馬、中岡慎太郎の墓前で手を合わせた。二人の墓石(ぼせき)は、同じ区画に並んでいた。同じ「近江屋事件」で暗殺された志士である。龍馬 33歳、慎太郎 30歳であったこと思うと、胸が痛む。
「霊山歴史館」は時間がなくやり過ごした。

「坂本龍馬(左) / 中岡慎太郎(右)」

◆「清水寺」
 およそ26年ぶりの参詣だった。
 閉門の 18:00 まで1時間たらずしかなかった。人はまばらだった。


◇「
北天の雄 阿弖流爲 母禮之碑」


北天の雄 阿弖流爲 母禮之碑」だけは見逃したくなかった。
 下記の文は、「yoritomo-japan.com」さんの「アテルイ・モレの碑」〜京都:清水寺〜」からの引用である。
アテルイ・モレの碑は、蝦夷(えみし)の首長阿弖流為(アテルイ)と母禮(モレ)の名が刻まれた石碑。
 801年(延暦20年)に行われた征夷大将軍坂上田村麻呂の蝦夷討伐で、勇敢に戦ったアテルイとモレ。
 しかし、翌802年(延暦21年)、田村麻呂が陸奥国に胆沢城を築くと、郷土の犠牲に心を痛め、田村麻呂の軍門に下った。
 田村麻呂は、二人を連れて京へ戻り、朝廷に二人の助命を願ったが許されず、二人は河内国で処刑されたのだと伝えられている。
 石碑は、平安建都1200年を期して、1994年(平成6年)に有志により建立されたもの。
「北天の雄 阿弖流爲 母禮之碑」と刻まれている」
 日本初の征夷大将軍で、清水寺の建立者である坂上田村麻呂が武人ならば、アテルイ、モレも武人だった。「武士道」を語るに、敵も味方もないだろう。
 よく見れば、東北地方の地図が見える。
◆「ぎをん 権兵衛」
 検索すると、「清水寺」から「権兵衛」さんまで、徒歩20分たらずで、拍子抜けした。この日 歩いたコースは、格好の散策路となった。
 いつもと同じ、「きつねうどん」と「親子丼」を注文した。
 やはり格別においしかった。客は私ひとりだった。
 時折 帳場から、女将さんの話す声が聞こえ、笑い声がしたのは、うれしかった。勘定を済ませ、「お元気で、どうぞ」といって店を出た。
◆「セブンイレブン 琵琶湖大橋西口店」
 車中泊。

2022/06/02
◆「栂尾山 高山寺」
「石水院」の南縁に足を投げ出し、二人の男性が仰向けに寝ながら話をしていた。早速 私も真似をした。寝ころびながら、明恵上人のことを思った。
 明恵上人は、『摧邪輪(ざいじゃりん)』を書き、法然上人の『選択本願念仏集(せんじゃくほんがんねんぶつしゅう)』を邪見であると非難しているが、空外先生を知って以来、そのことが気になっている。
「石水院」,「開山堂」,「明恵上人御廟」,「仏足石」,「金堂」,「春日明神社」の順に参拝し、「表参道」通って「神護寺」に向かった。今回も逆順だった。

「明恵上人御廟」
◆「高尾山 神護寺」


「神護寺と高山寺」
土門拳『古寺を訪ねて 京・洛北から宇治へ』小学館文庫
「好きな仏像は」と問われれば、
即座に「神護寺薬師如来立像」と答えるのが常である。
飛び立とうとして飛び立たず、叫ぼうとして叫ばず、
動と静の矛盾する要素を一身にもって、
高尾山中奥深き黒漆の厨子の中に
薬師如来は直立している。

 私のイメージとはかけ離れている。どうしても再訪したかった。
 全体的にふっくらとしていて、口を固くつむぎ、表情は固く、先のイメージを払拭することはできなかった。
 土門拳と私との間には、趣向の違いではすまされない、埋めるべくもない懸隔がある。
「形姿の均整な、気品の深沈(しんちん)たる名鐘である」といい、「神護寺の梵鐘(ぼんしょう)は、音においても日本一だと思う」と土門のいう、「日本三名鐘」の一つである、「梵鐘」についても見逃してしまっている。
◆「はしたて ジェイアール京都伊勢丹店」
「金目鯛ちらし寿司セット(金目鯛ちらし寿司、沢煮煮麺、小鉢、菜菹(さいしょ))」と「ハーフローストビーフ」をいただいた。京(みやこ)詣での際には立ち寄ることにした。
◆「セブンイレブン 琵琶湖大橋西口店」
 三夜続けての、同じ駐車スペースでの車中泊だったためか、早朝に起こされ職務質問を受けた。挙動不審はほめ言葉だと思っている。

2022/06/03
◆「大覚寺・大沢池」
 去来の草庵、「落柿舎(らくししゃ)」を訪ねて以来、およそ 19年ぶりの嵯峨野だった。
「北嵯峨」は「奥嵯峨」とは異なり、あまり観光地化されていないらしく、人はまばらだった。

◇ 白洲正子,牧山桂子 ほか『白洲正子と歩く京都』(とんぼの本)新潮社
を携えていった。当書は全編 白洲正子の随筆の引用文からなり、際立っている。「大覚寺・大沢池」にしろ、また「法金剛院」にしろ、当書だけが頼りだった。

「大覚寺」ではいつにない清々しさを覚えた。「大覚寺」を一巡し、日本最古の庭池である「大沢池」を巡った。ちょうど「石仏群」のあたりに、小ぶりな白蓮が幾つか咲いていた。清楚だった。




 はじめての参拝時には、記憶らしい記憶は残らないが、好悪の別だけはつく。帰宅後、
◇ 白洲正子『私の古寺巡礼』講談社文芸文庫
「幻の山荘 - 嵯峨の大覚寺」
を読んだ。今回の私の参拝は物見以前のものだった。
◆「法金剛院(蓮の寺)」
 門が閉ざされていた。検索すると、「観蓮会」が催される2022/07/09日~31日 以外の日には、拝観できないことが分かった。


「嵯峨に西行をひきつけたのは、ただ景色が美しく静かだというだけではあるまい。そこには(「西行が心を寄せた」)待賢門院が晩年を送られた法金剛院があるからだと私は思っている」(「法金剛院にて」白洲正子『西行』新潮文庫 58頁)
「ことに傷心の女院が、西方浄土を夢みて、日夜朝暮に礼拝されたであろうことを思うと、女院の魂は、この阿弥陀さまの体内に、未(いま)だに生きつづけているような感慨に打たれる」(「法金剛院にて」白洲正子『西行』新潮文庫 60頁)
「北嵯峨」のあたりが気になりはじめた。
◆「広隆寺」
 閉門の 17:00まで 40分たらずだった。そんななか、今回も、弥勒菩薩の御手に抱(いだ)かれて、安らけく居眠りした。
 お祀りされた仏具が美しい。
 十二神将中の「毘羯羅(びから)大将立像」,「聖徳太子孝養像」に目がいくのは毎回のことである。
◆「伊吹 PA(上り)」
 闇にまぎれ伊吹山こそ仰ぐことはできなかったが、気づくと、目の前いっぱいに、北斗七星が広がっていた。御神体だった。
◆「養老 SA(上り)」
 車中泊。

2022/06/04
 08:30 帰宅。

 今回の第一の目的は、空外先生のお墓参りをすることだった。その後、帰路についてもよかったが、ついつい長居をしてしまった。
 美しくあれ、と思っている。宗教についていえば、「尊い」は「美」の内にある。私の興味は、宗旨よりも個々人にあり、仏像にあり、建造物にある。特定の宗教組織なり、教団は埒外のことである。
 梅雨に閉じこめられ、酷暑に閉じこもる毎日がはじまる。退屈にすぎるこの地での生活にはうんざりしている。思うのは夜逃げすることばかりである。
 旅を重ね、すっかり放浪癖が身についた。