TWEET「置き忘れ」

 ある年まで、遠近両用眼鏡と「近」用のみの老眼鏡の二つの眼鏡を使い分けていた。遠近両用眼鏡の「近」は、読書に耐えうるような代物ではなかった。手元に常に「近」用の老眼鏡があるとはかぎらず、その際には、遠近両用眼鏡を外して、裸眼で小さな文字を追った。
 外した遠近両用眼鏡をよく置き忘れた。無造作に置いたものは容易には見つからず、時間ばかりが経過し、面白くなかった。
 幾つかの遠近両用眼鏡をこしらえ、紛失した際には、探さないことに決め、別の眼鏡をかけた。置き忘れた物を見つけるには、探さないことが適当であることを知った。
 いま室内では、「中・近」の眼鏡をかけている。「中」を読書用に、「近」を PC 用に焦点を合わせていただき、さらにレンズの上方は「遠」用になっているため、自宅内はこの眼鏡一つで間に合っている。外すときは、洗面、午睡、入浴、就寝時にかぎられ、見失うことはなくなった。
 ポケットには入らない形状の財布を使用していた。財布を手に持って歩いていた。こちらもよく置き忘れた。相手が財布なだけに気が気でなかった。人の善意によって救われた。
 ポケットに入る、二つ折りの財布に替えたが、ポケットに入れると違和感があり、やはり手に持って歩き、飽くなき失態を繰り返した。
 いまでは、小さなショルダーバッグ(GREGORY「サッチェルS」)に、必要なものはすべて入れ、たすきにかけて外出している。以来、置き忘れはなくなった。
 また、「サッチェルS」と車中には、「見つける天才」とのふれこみの、Apple の「Air Tag」がしのばせてある。「サッチェルS」を探したことはないが、駐車した行方不明の車を探したことは何度かある。大小を問わず、見失うときは見失う。(714文字)

「小林秀雄の眼」
白洲正子『遊鬼 わが師 わが友』新潮文庫 
「それについては面白い話がある。ある日、例によって(骨董の)茶碗(ちゃわん)か何かを買い、一杯機嫌で横須賀線に乗ったが、鎌倉で降りる時、大事な買物を電車の中に忘れてしまった。酔っても本性違(たが)わずで、ほんとうに大事なものなら忘れなかったと思うが、そんな風に合理的に解釈する必要はない。何より「(骨董を)買うこと」の一事に集中していた時だから、買ってしまえばあとは野となれ山となれ、ーー そこに小林さんの実に端的で爽(さわ)やかな一面がある。
 お嬢さんの明子(はるこ)ちゃんが子供の頃、東京へ連れて行くというので、喜んでついて行ったが、鎌倉の駅に着くと小林さんはさっさと切符を一枚買って改札口へ入ってしまった。明子ちゃんがいることを忘れたのである。だが、彼女はちっともお父ちゃんを恨んではいない、あれはああいう人だと思っている。お父ちゃんを全面的に信頼しているからで、もし骨董にも心があるならば、あれはああいう人だ、といったに相違ない。」(49-50頁)

 さすがに神様の忘れものは、私のちまちまとした置き忘れとはスケールが違う。後くされがなく、おおらかで、あっぱれというほかない。(1228文字)