「紀野一義『山本空外を語る 1/2』_新春に『四国遍路』を渉猟する」

紀野一義「山本空外を語る 1/2」
紀野一義『「般若心経」を読む』講談社現代新書
 山本空外は、弁栄聖者(べんねいせいじゃ)の法系に属する浄土宗の僧侶であり、書家であり、また新プラトン主義の始祖 プロティノスを研究する哲学者でもあった。下記は空外先生の文章である。

「小刀と竹一本あっても茶杓は自ら作れるが、そのときただ自分勝手に削ったのでは、どうにもならないので、竹一本一本のもつ各各の性質を生かしきっていけるような刀の冴えかたのできるところに快心の作といえる。刀と竹の自他一如がそうした悟入の心の深さで支えられるわけで、前述の「無二性」にほかならない。あたかも筆と紙があれば書道は行ぜられるが、紙一枚一枚の新古各各の漉きかたにいたるまで生かしきっていく使筆でこそ無二的書道につながるので、その一点一畫の運筆のなかに無二的人間の形成が行ぜられること、茶杓を作る刀ごとにやはり無二的人間の形成が行ぜられるのと同様である。そこを拝見するわけで、席に入って始めに書幅を拝見しても、終りに茶杓を拝見しても、一貫してその作者の無二的人間の形成行に直参するところに本義があるとすれば、拝見する客自身もその拝見を通して無二的人間の形成を行ずるのでなければならない。そこに人生にも取りくめる本義が通ずるので、この本義から外れたのでは「道」でもなく、精神文化でもない。念仏にしても、木魚一つでもあれば、称名の声と木魚を撃つ音と主客一如になるところ、大自然のいのちを呼吸する心境は深まりうるわけで、いわばそうした心境において揮毫する場合にはこの筆、この紙の各各のいのちを生かすことになり、茶杓を作るときには、その竹のいのちを生かす刀の冴えかたが深まるわけである。ところが西洋人には竹の理解乏しく、古来筆紙も南無阿弥陀仏も木魚も考え出せなかった。
 一人ひとりが一人ひとりなりに行じて、大自然を一人ひとりなりに生ていく文化、こうした精神文化の粋が書道なので、そこを白紙の上に墨一点にでも決めていくような精神文化は他に類がなかろう。(「墨美・二一四・山本空外」一二ページ)」(98-99頁)

「日本人の南無阿弥陀仏は、木魚をうつことによって称えられる。木魚をうつのはただ拍子をとるためばかりではない。うつ人と、木魚と、南無阿弥陀仏とひとつになるのである。そこに大自然に生かされている念仏というものがある。」(99-100頁)

読んでいただければそれでよく、これ以上の言葉は必要ないだろう。

プロティノスについては、
◆『井筒俊彦全集 第九巻 コスモスとアンチコスモス』 慶應義塾大学出版会
で知った。井筒俊彦はプロティノスの深い瞑想体験に「華厳経」の風光をみた。プロティノスには、インド行への強い意向があったが、かなわなかった。