「紀野一義『「般若心経」講義」PHP研究所_師走に『四国遍路』を渉猟する」

昨日の午前中に、
◆ 紀野一義『「般若心経」講義』PHP研究所
を読み終えた。紀野一義 三作目の「般若心経講義」である。一話完結の 40の節から成っていて、話題は各種 豊富である。
 本書でも、「私事(わたくしごと)」が一人歩きし、思わせぶりと相俟って、気障りである。沽券に関わる。「般若心経」を、また仏道を説く者に悖(もと)る由々しき問題でり、誰か進言する者はいなかったのか、と訝しく思っている。

 (十二因縁の)最初の「無明」と「行」とは同じ根源的な力だと考えてよいと思う。
 仏教学者で「無明」と「行」とは同じものだ、という大胆な発言をした人は、私の知る限りでは鈴木大拙先生ただ一人である。
 真宗の著名な学匠曽我量深先生の米寿を記念して『法蔵菩薩』という本が限定出版された時、鈴木先生は「始めに行ありき」という異例の序文を書かれた。その中にこのことが次のように書かれている。

「始めに行ありき」は、ゲーテの『ファウスト』にある言葉で、もとはヨハネ伝の「始めに道(ロゴス)ありき」に対するのである。「道」とは分別の意味である。仏教では十二因縁の始めに無明あり、それから行、それから識と発展する。この識はヨハネ伝の「道」に当たり、無明は無分別の義である。この無分別と行とは同一物であると見てよい。
 ゲーテは、ここでは、どんな意味で「行」を使って居るか、わからぬが、この「行」はロゴスの出る以前のもの、即ち分別識のまだ展開せぬところを指すのである。木が木で、犬が犬である所以は、ただ、それぞれ「行」であるだけで、木と犬と何れも無分別である。(中略)木、殊に犬には分別があるようで、実は無分別、即ちその生活は無意識的行為である。ただ行為の世界を生きて行くだけで、犬も木もこの点では一つである。或る意味では、彼等は無垢用(むくゆう)の行者である。遊戯三昧(ゆげざんまい)の生活に浸っている。(152-153頁)

「仏教学者で「無明」と「行」とは同じものだ、という大胆な発言をした人は、私の知る限りでは鈴木大拙先生ただ一人である」
「無明は無分別の義である。この無分別と行とは同一物であると見てよい」
一作目の、
◆ 紀野一義『「般若心経」を読む』講談社現代新書
では、歯切れの悪い表現に終始したが、鈴木大拙の信任の下、本書では、水を得た魚のようであり、その後、紀野は「行」ついて自在に語っている。

 ここには仏教とキリスト教との根本的な違い、東洋と西洋との決定的な相違が明らかにされている。
 仏教は「行」から始まり、キリスト教はロゴスから始まるのだ。仏教は分別知を尊しとしない。無分別、無意識に行為することを尊しとするのである。
 人をして無意識のうちに行動せしめる力が働いている。それが「無明」であり、「行」なのである。
 こういう「行」が「識」に変わった時から無分別の生活は送れなくなるとすれば、ロゴスに始まる西洋人の生活には、東洋人のいうようなさとり、つまり、行そのものとして生きるという生活はあり得ないことになる。(153-154頁)

「鈴木大拙先生は先の序文の中にこう書いておられる。」
 くどいようだが、今一度繰り返したい。
 娑婆を通って浄土に入るとき、娑婆を後に忘れては何にもならぬ。娑婆を片脇に引き抱えて浄土に入り、その浄土をまた片方の脇に抱えて出て来る。そのとき前面に坦々たる一条の白道がある。その道を踊躍して歩み進む。その先は何処だと問うこと勿れ。この道さえ見れば、それが「寂滅為楽」、それが「生者必滅」、それが「是諸仏法」となるのである。
 或はこれを南無阿弥陀仏の一生と言ってよい。この道が南無阿弥陀仏で、その人がまた南無阿弥陀仏、即ち南無阿弥陀仏が南無阿弥陀仏。則ち南無阿弥陀仏が南無阿弥陀仏を歩む。これが南無阿弥陀仏である。南無阿弥陀仏は称名でなくて、行そのものである。(167-168頁)

 私たちは、行そのものと生きることが大切だと考えて来たのだが、念仏者がお念仏を称えるということは、「行」すなわち「南無阿弥陀仏」が南無阿弥陀仏すること、お念仏がお念仏することなのである。
 もっと広くいえば、曹洞宗のすぐれた師家沢木興道老師が口癖のようにいわれた「自己が、自己を、自己する」ことなのである。(168頁)

鈴木大拙の気迫にすっかり気圧された格好である。さすがの紀野一義も、鈴木大拙の文章に対峙していつになく寡黙である。

 日本人はかつて、この世界を世界たらしめ、人をして生まれしめ、生かしめ、死なしめた大いなる力である「行」を「行」のままに受けとり、それに随順しつつ生きた長い歴史を持っている。明治以降、西洋式教育の全面的な受け入れとともに、次第にそれを失っていったとはいえ、それはたかだか百年くらいの歳月でしかない。日本人の中には依然として、「行」の促しのままに生きるという「任運自在」な生き方、「自然法爾(じねんほうに)」の信心は脈々と生きていると思う。それを、「ことば」や、「文学」や、「芸術」や、「宗教」の世界に鮮やかに示現して行きたいものである。(166頁)


 たとえば、小林秀雄の眼は、山本空外のいう、その作者の無二的人間の形成行」に向けられていることは承知していたが、さらにその先があるとはおよびもしないことだった。図らずもそれは、「その拝見を通して無二的人間の形成を行ずる」」ことでもあった。そこには双方における各々の「行」の形態が認められる。
そこに人生にも取りくめる本義が通ずるので、この本義から外れたのでは「道」でもなく、精神文化でもない。念仏にしても、木魚(もくぎょ)一つでもあれば、称名(しょうみょう)の声と木魚を撃つ音と主客一如になるところ、大自然のいのちを呼吸する心境は深まるわけである。」(紀野一義『「般若心経」を読む』講談社現代新書 99頁)
 山本空外との出会いは大きい。
 山本空外は、白川静と同様に大きすぎる。

本箱を漁ると、以下七冊の、鈴木大拙に関する書籍がみつかり、
◆ 鈴木大拙『禅の思想』春秋社
「大拙本人が、自身の代表作とした著作。戦時下の緊迫した状況下に書かれた。禅を「思想」、「行為」、「問答」の三テーマに分けて、禅の古典籍を引用しながら、言葉を超えた禅思想の在り処を言葉によって縦横に説き示す。」
◆ 鈴木大拙『東洋の心』春秋社
◆ 鈴木大拙『日本的霊性』岩波文庫
◆ 鈴木大拙著,北川桃雄訳『続 禅と日本文化』岩波新書
◆ 鈴木大拙『仏教の大意』法藏館
◆ 鈴木大拙、エーリッヒ・フロム,リチャード・デマルティーノ『禅と精神分析』東京創元社
◆ 秋月龍岷『鈴木大拙の言葉と思想』講談社現代新書
また、「新潮カセット講演」が、
◆ 鈴木大拙「禅と科学」
◆ 鈴木大拙「最も東洋的なるもの」
◆ 鈴木大拙「禅との出会い ー 私の自叙伝」
三作見つかった。

玄侑宗久「井筒病」
『井筒俊彦全集 第八巻』 月報第八号 2014年12月 慶應義塾大学出版会
「禅の詩的な側面をうまく取り出し、世界に紹介したのが鈴木大拙翁の功績だとすれば、井筒先生は禅の奇特さを世界的な思想の枠組みの中に示してくださった。私などに申し上げる資格がないのは明らかだが、禅にとって井筒先生は天恵の如き存在であったと思う。」

井筒俊彦の著作についてはずいぶん拝読したが、「禅の詩的な側面をうまく取り出し、世界に紹介した」「鈴木大拙翁の功績」の方は、手つけずも同然である。ほとんどの作品が、学生時代からの積読である。講演については早速拝聴し、書籍に関しては、申し訳なくも、また勿体無くも、いましばらく、足踏みを続けさせていただこうと思っている。
が、
「先生ご自身で会心の作と思われるものは、どの本でしょうか」
『禅の思想』と『浄土系思想論』だな」
◆ 鈴木大拙『禅の思想』岩波文庫
◆ 鈴木大拙『浄土系思想論』岩波文庫
は別格である。『禅の思想』については、岩波文庫版が新しく発刊されている。