「紀野一義『山本空外を語る 2/2』_新春に『四国遍路』を渉猟する」

紀野一義「山本空外を語る 2/2」
紀野一義『「般若心経」講義』PHP研究所
 山本空外は、弁栄聖者(べんねいせいじゃ)の法系に属する浄土宗の僧侶であり、書家であり、また新プラトン主義の始祖 プロティノスを研究する哲学者でもあった。下記は空外先生の文章である。

「茶人は茶杓も作り、茶筌も作る。」(55頁)
「僅か竹の一片ではあっても、その一本一本の竹質のさくさ、ねばさ、その他の加減等々を、そう削らなければ削りようもないほど、千変万化する竹質のそれぞれなりに生かしきっていく刀の冴えを拝見するわけである。それも名作は一応光ってはいるものの、その光に照らされるだけでなしに、自ら茶杓を削るなかに体験する悟入にもとづくのが本当のようである。また自ら行じなければ、何事でも半解に終るのではなかろうか。東洋の精神文化が行の文化として深まるゆえんを沈思しなければならない」(「墨美 二一四号」「山本空外 ー 書と書道観」墨美社)(54-55頁)

「空外先生の文章を読んでいて感ずることは、竹にも、木にも、筆にも、紙にも、木魚にも、そして人間一人ひとりにも「いのち」というものが生きているということである。
 竹のいのちを生かすためには刀が冴えていなければならない。
 その刀を作り出すことも、研ぐことも、自在に使うことも、ひとつひとつが人間の修行である。
 紙の上に墨一点を記すことも、その筆をえらぶことも、その筆を作ることも、たとえ自ら作らずとも、どう作られているか知ることも、人間の行である。」(54-55頁)

「先生は毎回ギリシャの哲学者のプロティノスのお話をなされ、難解なので参会者は皆寝てしまうそうである。それでも先生はいささかも動ぜず、「面白いですねえ、面白いですねえ!」を連発なさるそうである。これをきいて私は「これこそ自受用三昧だな」と思った。
 名人達人は大方、自受用三昧である。人に教えようとか、分かってもらおうとかいうようなケチな料簡はない。自ら語り、自ら楽しむ、人が分かろうが分かるまいがどうでもいいのだ。そういうところに空外先生がいられると分かってとうとう法蓮寺まで先生にお目にかかりに行った。」(50頁)

プロティノスについては、
◆『井筒俊彦全集 第九巻 コスモスとアンチコスモス』 慶應義塾大学出版会
で知った。井筒俊彦はプロティノスの深い瞑想体験に「華厳経」の風光をみた。プロティノスには、インド行への強い意向があったが、ついにかなわなかった。

 軽々しく、平気で、このような文章を書かれると、閉口するばかりである。
 私が、空外先生の、たとえば「書」を拝見し、あるいは「茶杓」を手にして、なにを感じるのだろうか。図版上ではわからないのだろうか。図版でわからないものを雑誌に掲載するはずもなく、いま最も気になる人物である。
『墨美』は、京都の「墨美社」が出版している「書」の専門誌である。生前の人の「書」を取りあげたのは、空外先生ひとりであり、異例だった。生前、「山本空外」を特集する三冊の『墨美』が出版されている。
◆『墨美 山本空外 ー 書と書道観 1971年9月号 No.214』
を注文しました。「試金石」上の人になります。

以下、
です。ご参考まで。