TWEET「新春に『四国遍路』を渉猟する_司馬遼太郎『風土的日本仏教の基本』」

「心と形」
一九九〇年五月 仙台市 東北大学医学部同窓会総会における講演の記録に、大幅な加筆をしたもの 朝日文庫『春灯雑記』から
『司馬遼太郎全講演[4] 1998(II)-1991』朝日文庫
 さきに、家の宗旨についてのべましたが、私自身が属している宗教はありません。しかし、
「無宗教です」
 というつもりはありません。宗教についてのこういう微妙な気分は、日本の多くの人々と私はおなじです。
 しかし、あたらしい文明のなかに私どもはすでに入っていて、しかも臓器移植と他者への臓器の提供という生命の課題が、日常の“事務”としておこりつつある時代に私どもはいます。
 生命は、科学が全能として扱うべきではないということも私どもは知っています。
 さらには、科学・技術という強力な文明が地球を覆いはじめたために、私どもは、否応なしに、地球人にされています。地球人の基本倫理が、隣人への愛であることも、私どもは知っています。
 この状況は、日本の古くからの宗教的風土についてゆけなくなっています。その風土に根ざした哲学的な合意が、“無宗教”的な私どもの間に、なんとかうまれて来ないものなのか、というのが、この話の結論です。
 風土的日本仏教の基本を整理しきってしまいますと、宇宙は空であるとともに光であり、生命というただ一種類の体系であるということです。生命ということにおいて、植物や微生物にいたるまで、自分や人間一般とすこしのかわりもなく、平等に生命を、そのかけらを、共有しているものであります。
 そこまでは、わかっています。しかもこれだけで十分だと思います。これ以上言えば、宗教や宗派になります。これだけの合意があれば、倫理については個々にまかせればいい、のではないでしょうか。(239-240頁)

 司馬遼太郎のいう「整理しきっ」た「風土的日本仏教の基本」とは、まさに「空即是色」の風光である。
「風土的日本仏教」とは、「文化的無意識」の内に、生得的に規定された事象のことである、いま私は井筒俊彦を思っているのだが、それは、井筒俊彦と親しく対談もし、また弔辞も述べた司馬の、井筒を意識しての発言だろうと想像するからである。
 それは宗教でもなく信仰でもなく、民俗である。「文化的無意識」内でのことであれば、「合意」し、そこに立脚するしかあるまい。
 司馬遼太郎は、「倫理については個々にまかせればいい、のではないでしょうか」といっているが、空海ならば、後ことは、その人の「眼力(がんりき)で決まる」、というだろう。
 畢竟するに、「空相観」とは、日本人の郷愁であるといえよう。