「紀野一義『これ、如来の最後のことばなり』_新春に『四国遍路』を渉猟する」

今日西日が射すころ、
◆ 紀野一義『「般若心経」を読む』講談社現代新書
を読み終えた。理解のゆきとどかない項もあり、行きつ戻りつの読書だった。
◆ 紀野一義『「法華経」を読む』講談社現代新書
の読後感と同様に、「私事(わたくしごと)」が目にあまり、俗気を感じた。こういった方面には思いがいたらない方らしい。今回は、「講演の筆記録のような風合いの内容」「エピソード 般若心経」と心得てのぞんだ読書だったので、不足はなかった。高尚な話題の展覧はみごとだった。

「釈尊の最後の言葉」
「大般涅槃経(だいはつねはんぎょう)」は、釈尊が亡くなられる時のようすを、克明に書いたお経である。これは、パーリ語で書かれている。この経典の一番最後に、次のようなことばがある。
 「『比丘(びく)らよ、汝等に告げん。諸行は壊法(えほう)なり。不放逸(ふほういつ)によりて精進せよ。これ、如来の最後のことばなり。』
 (パーリ語略)
 ヴァヤダンマー・サンカーラー
 アッパマーデーナ・サムパーデートゥハ」
 こう言って、釈尊は亡くなられた。こういうことばというのは、わりあい正確に伝わっていると思う。」(174頁)
 釈尊の弟子たちも、よってその漢訳も、「諸行壊法(諸行無常)」と解釈したが、紀野一義はそれに異を唱えている。そして、「お釈迦さまの遺言を正しく伝えたのは法華経」(177頁)である、という。本書には、原語であるパーリ語によるその異同が詳細に記述されているが、それは読んでいただくしかない。

 十二因縁の「行」と「識」を、紀野は、「行(こころ)」「識(心)」と訳している。
「『行』(こころ)のあとに『識』(心)というのが来る。この識は、行とくっついている。行の世界から識の世界へ行ってしまうと、今度は、考えすぎるのである。この『識』のことを、『分別』という。ふつう『分別がある』などというと、物事の道理がよくわかっている人という。ところが仏教では、分別というのはいけない。一番いいのは『無分別』である。分別というのは、(中略)主体と客体がいつもある。」(182頁)

「そのことをお釈迦さまはおっしゃったのではないか。おまえたちは、ずっと修行をしてきた。識という世界では、いろんなことを勉強してきている。こんど一番大切なのは、行から識へ行きすぎると、修行も人間も死んでしまう。だから、行という世界、仏さまにうながされて、ごく自然に働いたり考えたりする世界を心から離すなよと言われたのが、ヴァヤダンマー・サンカーラー。アッパマーデーナ・サムパーデートゥハ」ということばだと思う。今のところわたしはそう思っているのである。(184頁)

良寛上人のような人は「こころ」がそのまま歩いているという感じがする。わたしは、それがほんとうの修行ではないかと思う。仏さまにうながされ、そのうながしのままに行動して、それがちゃんと道にかなっているという生きかたをしたいと思う。そういう生き方を、「行もなく、行の尽きるところもなし」というのである。(184頁)

拝聴に値する言葉である。「こころ」から「心」への逸脱。「空」からの転落。玄侑宗久のいう「仕立て上げた『私』」、盤珪(ばんけい)禅師のいう「気癖(きぐせ)」、分別といいまた分別知といい、見透かされ、名指しされた自分を感じている。