「高神覚昇師『般若心経講話』_新春に『四国遍路』を渉猟する」

深夜 目を覚まし、
◆ 高神覚昇師『般若心経講義』角川文庫
を読み終えた。「青空文庫」版で読んだ。
前述したように、
◆ 中村元,紀野一義『般若心経・金剛般若経』岩波文庫
「『般若心経』解題」には、
「現在通俗的講義として特に有名なのは、
 高神覚昇師『般若心経講話』(角川文庫)である」(172頁)
との一文がある。
「1934年には、東京放送局より『般若心経講義』を放送し、人気を博す。」
との記載もあった。
「通俗的講義」の先がけである。
 
 本書は「講話」というよりも、豊富なアフォリズムを引いた「お説法」である。それらのアフォリズムは膨大、広範におよび、ただ瞠目するばかりであるが、「お説法」は所詮、私の肌には合わず、何度もくじけそうになりながらも、読み通したことにいま達成感を覚えている。
「お説法」を除き、その内容を「般若心経」の解説・解釈に限れば、立派な一書の体をなすはずのものであるが、出自が「ラジオ放送」ということを鑑み、また「人気を博」したことを思えば、私が口をはさむことではないだろう。

「因縁を知ることは仏教を知ることだ」
「釈尊は、因縁の創造者ではなくて、実にその発見者なのです。釈尊は、自ら因縁の真理を発見されて、まさしく仏となられました。しかし、それと同時に、この因縁の法を「教え」として、万人の前に説き示されたのが仏教です、因縁の教え、それが仏教です。真理の教え、それが仏教です」(34頁)
「それ(因縁の性質)は実に縦にも、横にも、時間的にも、空間的にも、ことごとく、きっても切れぬ、密接不離な関係にあるのです。ちょっとみるとなんの縁もゆかりもないようですが、ようく調べてみると、いずれも実は皆きわめて縁の深い関係にあるのです」(34頁)
「私どもの世の中にある一切の事物は、みな孤立し、固定し、独存しているのではなくて、実は、縦にも、横にも、無限の相補的関係、もちつ、もたれつの間柄にあるわけです。すなわち無尽の縁起的関係にあるわけです。したがって現在の私どもお互いは、無限の空間と永遠の時間との交叉点に立っているわけです」(36-37頁)

 この因縁(因縁生起)についての話題(真理)は興味深く、また、
「『空の背景』となり、『空の根柢』となり、『空の内容』となっているところの『因縁』という言葉からお話ししていって、そして自然に、空という意味を把んでいただくようにしたい』(32頁)
という表現がみられるが、それに続く「空」についての言説は稚拙である。「般若心経」において、「空」に関する解説がぞんざいになされたままになっているのは致命的である。

一昨日のブログ、
TWEET「新春に『四国遍路』を渉猟する_司馬遼太郎『風土的日本仏教の基本』」
を書く際には、井筒俊彦の文章の何頁かを参照し、またその際には、
「『四国遍路』を渉猟する」
の連載を打ち切る時期がきていることをはっきり自覚した。
 井筒俊彦の哲学の文章に、彩り(宗教色)を添えれば、「因縁」の、また「色即是空 空即是色」の景色が、細大漏らさず、緻密に叙述されていることを再認識したからである。
 高神覚昇師の『般若心経講義』を例にとり、槍玉にあげたのは申し訳なく思っているが、それは、「般若心経」に関する著作全般についてもいえることである。
 「四国遍路」を渉猟してきたことに、後悔の念を抱いているわけではない。「般若心経」と「哲学の文章」とは自ずから意を異にするものであり、「般若心経」、また「般若心経」から広がった風光は魅力的だった。いまは、よく「持(たも)」つことを旨としている。