TWEET「新春に『四国遍路』を渉猟する_いま、芭蕉がおもしろい」

いま、
◆ 高神覚昇師『般若心経講義』角川文庫
を「青空文庫」版で中ほどまで読んだ。
「通俗的講義」には「通俗的講義」なりの良さがある。しかし、「般若心経」を借りての「通俗的」なお説教には嫌気がさす。「般若心経」の品格を貶(おとし)めるばかりである。「般若心経」は、お節介とは無縁である。
 重複して読んだ話題がいくつかある。皆さん、高神覚昇師の話題を、我がお手柄のように借用していますね。

「いま、芭蕉がおもしろい」
「俳聖芭蕉(ばしょう)のいわゆる
「見るところ花にあらずということなし、おもうところ句にあらざるなし」(吉野紀行)
というのはまさしくこの心の眼を開いた世界です。心の耳をすまして聞いた世界です。つまり観察するという心持でもって、大自然に対した芸術の境地であります」(32-33頁)

「芭蕉は、俳句の心は「無心所着」といっていますが、この「心に所着なし」という境地が、生滅を滅し已るという世界で、ものにこだわり(執着心)のない日本人の明朗性も、ここにあるのです」(86頁)

「『花屋日記』の作者は、私どもに芭蕉翁の臨終の模様を伝えています」
「支考(しこう)、乙州(いっしゅう)ら、去来(きょらい)に何かささやきければ、去来心得て、病床の機嫌(きげん)をはからい申していう。古来より鴻名(こうめい)の宗師(そうし)、多く大期(たいご)に辞世(じせい)有り。さばかりの名匠の、辞世はなかりしやと世にいうものもあるべし。あわれ一句を残したまわば、諸門人の望(のぞみ)足りぬべし。師の言う、きのうの発句はきょうの辞世、今日の発句はあすの辞世、我が生涯言い捨てし句々一句として辞世ならざるはなし。もし我が辞世はいかにと問う人あらば、この年ごろいい捨ておきし句、いずれなりとも辞世なりと申したまわれかし、諸法従来、常示寂滅相(つねにじゃくめつのすがたをしめす)、これはこれ釈尊の辞世にして、一代の仏教、この二句より他はなし。古池や蛙(かわず)とび込む水の音、この句に我が一風を興せしより、はじめて辞世なり。その後百千の句を吐くに、この意(こころ)ならざるはなし。ここをもって、句々辞世ならざるはなしと申し侍るなりと」
「ほんとうの遺言状まことに、昨日の発句は、きょうの辞世、今日の発句こそ、明日の辞世である。生涯(しょうがい)いいすてし句、ことごとくみな辞世であるといった芭蕉の心境こそ、私どもの学ぶべき多くのものがあります」(266-267頁)

学生時代、雲英末雄(きらすえお)先生のご紹介で、
◆ 尾形仂(おがたつとむ)
『芭蕉の世界』講談社学術文庫
を読んだ。発行後間もなくのことだった。然るべき内容で印象に残っている。
 話題に満ちた「通俗的講義」には、思い出も思い入れも少なからずある。足元には、本が乱雑に積んである。満載である。読まなくっちゃ、と思っている。