「新春に『四国遍路』を渉猟する_『空外記念館』」

「空外記念館」の所在を知った。山本空外先生を敬慕し、帰依する方たちの呼びかけによって設立されたものだろう。
 空外先生のいわれる「無二性」とは、主客一如、「南無阿弥陀仏が南無阿弥陀仏する」、また、「私」が「いのち」に溶融した境地である、と理解している。
「弁栄聖者(べんねいせいじゃ)のご信心は一から十まで法華経に基づいています」(紀野一義『「般若心経」講義』PHP研究所 51頁)と空外先生はいわれる。空外先生は、弁栄聖者の法系に属しておられたが、「南無阿弥陀仏」に拘泥するような狭量な心持ちはなかった、と信じている。
 茶杓を、また直筆の書を目にする機会がある。図書の出版・販売もなされている。
 朗報に接した。
 空外先生は、見るとは、「その拝見を通して無二的人間の形成を行ずる」」ことである、という。
 懸案は私の境涯にある、といえよう。

以下、覚書です。
 紀野一義『「法華経」を読む』講談社現代新書
「道元は、さとりについての彼の私的な、そしてきわめて哲学的なコメントである『正法眼蔵』を書いているが、そのほとんどは法華経のすばらしいイメージに触発されて書かれたものだと私は考えている。」(83頁)
また、
「鎌倉時代に出た詩人哲学者道元禅師」(60頁)
という言葉もある。