「パンデミックの最中(さなか)にあって_ “愛” について その二」

2020/05/17 に、
「パンデミックの最中(さなか)にあって_ “愛” 三題」
を書きましたが、今回は、日本語学者の側から大野晋さんのご登場です。再掲です。

「愛」を「大切」と訳した、室町時代における宣教師たちの見識
大野晋『日本語の年輪』新潮文庫
「愛」という言葉は、古くから日本に入って来ている中国語であり、言葉の上だけから見れば、日本語の中で「愛する」という言葉が使われたのは、実はそんなに新しいことではない。
(中略)
 もっとも、これらの例は、親が子に対していう場合、姫君が虫を可愛(かわい)がった場合など、小さい物を愛玩(あいがん)し、いとけないものを大切にするという意味であり、「彼女は彼を愛していた」というような、成人した女が男を愛していたという例はない。
 室町時代の末に日本に来てキリスト教を広めようとした人々は、キリスト教の愛、神の愛を説こうとしたときに、愛という言葉を避けて「大切(たいせつ)」という言葉をもっぱら使った。それは、当時すでに「愛」という言葉にしみついていた、そういう「小さいものを可愛がる」というような意味から遠ざかろうとしたためであろうと思われる。
 女と男が互に平等な人間として、愛し合ということが、果して、現在の日本のように、相手の人格を尊重するという程度の考え方で出来ることなのかどうか。ヨーロッパで、男女が愛し合うというときには、その証人として「神」が大きな役割をしている。
(中略)
キリスト教の神は、唯一(ゆいいつ)絶対の審判官である。その保証のもとにおいてのみ、対等な人間の愛がありうるとされている。
(中略)
キリスト教の神の観念を消化せずに、果たして、ヨーロッパ風の「愛」が日本人にわかるようになるかどうか。(102-103頁)