白洲正子「近江は日本の楽屋裏」

「笠置寺」
白洲正子,牧山桂子 ほか『白洲正子と歩く京都』(とんぼの本)新潮社
石があったから石仏を造った。
それでは少しも答えにはなるまい。
そこには仏教以前からの
石の信仰があり、
仏教と結びつくことによって
花開いたのであろう。
現に笠置の磨崖仏などは、
明らかに巨石信仰の形を遺しており、
道のべの石地蔵も、仏というより
さいの神のような姿をしている。
(『道』「春日(はるひ)の春日(かすが)の国」)(53頁)


「石塔寺」
「司馬遼太郎の近江散歩抄」
司馬遼太郎,白洲正子,水上勉 他『近江路散歩』(とんぼの本)新潮社
「石塔寺にゆけば、近江がわかる」
 というのが、「上代以来、近江に住んでいる」という草津在の友人我孫子(あびこ)元治氏の説であった。どうわかるのか、このながい石段をのぼりつめてみねばわからない。途中で、なんどか息がきれた。
(中略)
 最後の石段をのぼりきったとき、眼前にひろがった風景のあやしさについては、私は生涯わすれることができないだろう。
 頂上は、三百坪ほどの平坦地である。まわりにも松がはえている。その中央に基座をおいてぬっと立っている巨石の構造物は、三重の塔であるとはいえ、塔などというものではなく、朝鮮人そのものの抽象化された姿がそこに立っているようである。朝鮮風のカンムリをかぶり、面長扁平(へんぺい)の相貌を天に曝(さら)しつつ白い麻の上衣を着、白い麻の朝鮮袴をはいた背の高い五十男が、凝然としてこの異国の丘に立っているようである。
「なんのためにこんな山の上にこんな塔があるのだろう」
 と、同行のたれかが気味わるそうにつぶやいたが、これはこの方面のどういう専門家にも答えられぬことであった。巨石の積みあげによる構造上の技法は、あきらかに古代朝鮮のものだそうである。
 ーーこの近所の帰化人がやったことです。
 と、たまたま頂上にのぼってきたこの寺の坊さんがいった。この丘の付近は、八日市にしろ日野にしろ、上代帰化人の大集落のあったところである。かれらが、故郷をなつかしむあまり、この山の上にこのような巨石をひきあげ(どういう工夫でひきあげたか、謎である)、それをどういう技法かで積みあげ、いかにも擬人的な石塔を組みあげて半島をしのぶよすがにしたのであろう。
(中略)
いつごろ、たれがこれを作ったか、むろんわからない。(なるほど、近江はよくいわれるように渡来人のものだったのだ)ということを、理屈をこえてこの塔は訴えてくるし、理屈以上の迫力をもってこの塔は証明しているようである。
(中略)
塔は近江をひらき日本に商業をもちこんだ近江渡来人の一大記念碑であるがごとくであり、渡来人たちの居住区宣言(テリトリーソング)であるような気もする。(『歴史を紀行する』「近江商人を作った血の秘密」より)(48-49頁)

『近江山河抄』講談社 文芸文庫(22-23頁)で、白洲正子は「石塔寺の三重の塔」について書いている。司馬遼太郎とは、およそ異なった見方を披露していておもしろい。

「穴大(あのう)衆の石積み - 粟田万喜三」
白洲正子『日本のたくみ』新潮文

 観音寺山は、一名きぬがさ山と呼ばれ、山頂には観音正寺(しょうじ)という古刹(こさつ)が建っている。西国三十二番の札所になっていて、麓から天辺(てっぺん)までけわしい自然石の石段がつづき、登るのにはひと方ならぬ苦労をした。近江は石の国であることを、身をもって体験したのはその時のことだったが、山頂の近くには、近江に四百年の間君臨した佐々木一族の城跡がある。この城は永禄十一年(一五六八)、織田(おだ)信長によって滅ぼされ、今は石垣を残すのみだが、その豪放な自然石の石積みには、鎌倉武士の溌剌(はつらつ)とした面魂(つらだましい)を想わせるものがあった。
 城といえば、近江には名城が多かったことでも知られている。完全に残っているのは彦根城(ひこねじょう)だけであるが、五層七重の天守がそびえていたという安土城址(あずちじょうし)は、石垣を見るだけでも当時の壮観を偲(しの)ぶことができる。(30-31頁)

GW には、「石塔寺」,「安土城址の石垣」,「繖山 観音正寺」に見られる石造美術にふれようと思っている。湖西の「石積み」群については、日をあらためてということにさせていただくことにする。要は歩き通せるかどうか、ということである。

◆「穴大(あのう)衆の石積み - 粟田万喜三」
◇ 白洲正子『日本のたくみ』新潮文

◆「坂本 / 日吉神社 / 比叡」
◆「石垣の町 坂本」
◆「司馬遼太郎の近江散歩抄」
 ◇ 司馬遼太郎,白洲正子,水上勉 他『近江路散歩』(とんぼの本)新潮社


古寂びた、『るるぶ情報版 滋賀 / びわ湖 / 若狭 '05~'06』の地図と戯れている、といえば格好もつくが、時代がかった、カビ臭い代物ということである。