「『言語アラヤ識』を索めて 1/2_井筒俊彦 読書覚書」

 井筒俊彦『意識と本質 ー 精神的東洋を索めて ー 』岩波文庫 の「Ⅵ」章には、
「さきに私が、『言語アラヤ識』と呼びたいと言ったものがそれだ。」(130頁)
の一文がある。この一文を端緒に、私の「言語アラヤ識」探しがはじまった。井筒俊彦の措定した「言語アラヤ識」の出自がどうしても知りたかった。


第九章『意味と本質』
 「種子」は、すなわち意味であると井筒はいう。彼は(仏教の)唯識思想を単に焼き直し、踏襲しているのではない。その伝統に彼もまた参与しているのである。彼にとって、真実の意味における継承は深化と同義だった。
 「唯識哲学の考えを借りて、私はこれ〔言語アラヤ識〕を意味的『種子(ビージャ)』が『種子』特有の潜勢性において隠在する場所として表象する」としながら、阿頼耶識の奥、「コトバ(実在、絶対的超越者、超越的普遍者、絶対無分節者)」が意味を産む場所を「言語アラヤ識」と呼び、特別の実在を与えた。「言語アラヤ識」と命名すべき実在に彼が遭遇し、それに論理の体を付与したとき、井筒は「東洋哲学」の伝統の継承者から、刷新者の役割を担う者となった。(380-381頁)

「言語アラヤ識」とは、井筒俊彦が命名した「実在」である。
「イデア論は必ずイデア体験によって先立たれなければならない」(「神秘哲学」)、それはプラトンのイデアの実相を言い当てているだけでなく、彼(井筒俊彦)が自らの信条を表現した一文だと思ってよい。根本問題を論じるときはいつも、実存的経験が先行する。むしろ、それだけを論究したところに井筒俊彦の特性がある。」(378-379頁)

 「さきに私が」の言葉、また「唯識思想」,「阿頼耶識」,「種子(ビージャ)」の語を手がかりにして、130頁までを、そして全頁を何往復かしたが、いまだに出自不明のままである。若松英輔の引用箇所も不明である。
 時系列順に、以下の四種類の『意識と本質』が発行されている。
◇「意識と本質 ー 東洋哲学の共時的構造化のために ー (『思想』岩波書店,論文)
◇ 井筒俊彦『意識と本質 ー 精神的東洋を索めて ー 』岩波書店
◇ 井筒俊彦『意識と本質 ー 精神的東洋を索めて ー 』岩波文庫
◇ 「意識と本質 ー 東洋的思惟の構造的整合性を索めて ー 」(『井筒俊彦著作集』第六巻 中央公論社,決定版)
「論文」か「決定版」に当たれば解決するのだろうか。相当な時間を費やした。週末は変則的な読書に明け暮れた。深層意識内の真相は、私には不分明ということなのであろうか。
 私には、井筒俊彦の著作は、
若松英輔『井筒俊彦―叡知の哲学 』慶應義塾大学出版会
の案内なしには読むことができない。理解は遅々として進まないが、遅々たる歩みを続けることにする。