「井筒俊彦との明け暮れに、五日遅れの穀雨に、です」

〈対談〉井筒俊彦 司馬遼太郎「附録 二十世紀末の闇と光」
司馬遼太郎『十六の話』中公文庫
 当対談は、お二人が挨拶を交わされた後、司馬遼太郎の、
「私は井筒先生のお仕事を拝見しておりまして、常々、この人は二十人ぐらいの天才らが一人になっているなと存じあげていまして。」(399頁)
の発言にはじまり、また司馬の、
「やっぱり哲学者は違うなあ(笑)。だから、われわれは世界に対して光明を求めあう。そういうことが今日の結論ですね。」
の言葉で幕を閉じている。


 「存在はコトバである」ことへの、また「空海」への関心から、昨日、
◇ 「言語哲学としての真言」
◇ 「意味分節理論と空海 ー 真言密教の言語哲学的可能性を探る」
を読み、今日、
◇「文化と言語アラヤ識 ー 異文化間対話の可能性をめぐって」
を読んだ。
 「異文化間の対話は可能か」という題目に、井筒俊彦は “ 深層意識的言語哲学者 ” として、見事な回答を寄せた。それは感動的で、美しくさえあった。
 その後、思うところあって、
〈対談〉井筒俊彦 司馬遼太郎「附録 二十世紀末の闇と光」
司馬遼太郎『十六の話』中公文庫
を読み直した。思うところあってとは、上記の司馬遼太郎の井筒評を、共にしたかったからである。「異文化間の対話」の問題といい、対談で扱われている「民族問題」,「民族紛争」の話題といい、いずれも「コトバ」に収斂することを理解した。『空海の風景』が広がった。見通しがよくなった。

 理解のおぼつかないままに、脈絡もなく井筒俊彦の著作を読みふけっている。それが、井筒俊彦を繙く一番の近道だと感じている。感慨はあるが、それは後日ということにさせていただきたいと思う。
 いま私の上には「穀雨」が降りしきっている。「穀雨」が止まないことを祈るばかりである。