「拝復 Nさんへ_57歳です。馬齢を重ねるばかりです」

ご丁寧なご挨拶、どうもありがとうございました。
57歳です。馬齢を重ねるばかりです。

北海道へのお誘い、どうもありがとうございました。Nさん持ちの、北海道での豪遊、楽しみにしています。豊橋にもまたお越しください。父が喜びます。また、その際には張り切っておもてなしをいたします。

すっかり葉桜になり、雨が降り、以来肌寒く、朝晩には暖房を入れています。ぬくぬくして気持ちがよく、眠くなり、春眠を貪っています。

車選びをしているんですね。新車ですね。「オンボロ」で「ボロボロ」「ぼろぼろ」とはいえ、「ラパンちゃん(Nさんの自動車)」とのお別れは名残り惜しいですよね。華の二十代を乗せて走る車です。派手にいきましょう!!

知的障害の予備知識もなにもなく、どんな授業風景なのかもさっぱりわかりませんが、ご無理だけはしないように、と祈るばかりです。

お便り、どうもありがとうございました。
くれぐれもお大事になさってください。ご自愛ください。

下記、
です。

『中井久夫の臨床作法』日本評論社
(2015/09/09 に出版されたばかりのムックです。)
「精神科医・中井久夫が患者と家族に接する流儀は、絶望の淵にある人びとの治療への士気を高め、「希望」を処方することだった ─ その卓越した治療観から学んだ人びとによる中井流対人作法のエッセイ決定版!」

中井久夫『看護のための精神医学』 医学書院
「看護できない患者はいない」
「看護という職業は,医者よりもはるかに古く,はるかにしっかりとした基盤の上に立っている。医者が治せる患者は少ない。しかし看護できない患者はいない。息を引き取るまで,看護だけはできるのだ。
 病気の診断がつく患者も,思うほど多くない。診断がつかないとき,医者は困る。あせる。あせらないほうがよいと思うが,やはり,あせる。しかし,看護は,診断をこえたものである。「病める人であること」「生きるうえで心身の不自由な人」──看護にとってそれでほとんど十分なのである。実際,医者の治療行為はよく遅れるが,看護は病院に患者が足を踏み入れた,そのときからもう始まっている。」(2頁)