「『言語アラヤ識』を索めて 2/2_井筒俊彦 読書覚書」
私は、2018/04/23 のブログ、「『言語アラヤ識』を索めて 1/2_井筒俊彦 読書覚書」 にて、以下のように書いた。
井筒俊彦『意識と本質 ー 精神的東洋を索めて ー 』岩波文庫 の「Ⅵ」章 には、
「さきに私が、『言語アラヤ識』と呼びたいと言ったものがそれだ。」(130頁)
の一文がある。この一文を端緒に、私の「言語アラヤ識」探しがはじまった。井筒俊彦の措定した「言語アラヤ識」の出自がどうしても知りたかった。
(中略)
「論文」か「決定版」に当たれば解決するのだろうか。相当な時間を費やした。週末は変則的な読書に明け暮れた。深層意識内の真相は、私には不分明ということなのであろうか。
を求め、昨日 早速調べた。『井筒俊彦全集』には、巻末に「解題」と「索引」が付されている。ありがたい配慮である。
「その(「アラヤ識」の)議論を始めるさいに言及される「さきに私が、「言語アラヤ識」と呼びたいと言ったもの」(一二三頁一一行)は、おそらく(『思想』)連載第二回(1980年7月)の「言語意味的アラヤ識」を指すものと思われる。(463頁)
「用語の統一はいささか不徹底に終わった、ということのようである。」(464頁)
なお、「岩波書店版(1983年1月)」を発行する際には、「言語意味的アラヤ識」は、「意味的アラヤ識」(46頁)に訂正され、以下の一文が新たに加えられた。
「言語アラヤ識」という特殊な用語によって、私は、ソシュール以来の言語学が、「言語(ラング)」(国語、langue)と呼び慣わしている言語的記号の体系のそのまた底に、複雑な可能的意味聯鎖の深層意識的空間を措定する。(一七七頁)
上記の一文を、「言語アラヤ識」の出自と考えてさしつかえないだろう。
溜飲が下がった。直接、『思想』に当たってみたい気もするが、「言語アラヤ識」の経緯(いきさつ)については一応の解決をみた。「コトバ」の変遷については、若松英輔が、若松英輔『井筒俊彦―叡知の哲学 』慶應義塾大学出版会 (379-388頁)で詳述している。
井筒俊彦にとって『意識と本質』の執筆は、氏の「意識と本質」の実在体験と同時進行だった。今回、「言語アラヤ識」という井筒俊彦の発明に立ち会うことによって、井筒俊彦の創造、生成過程の一端を垣間見た気がする。
「コトバ」の変遷については、
「言語、言葉、コトバ_「意識と本質」を読むとは」〈『意識と本質』_はじめから」〉
をご覧ください。
井筒俊彦『意識と本質 ー 精神的東洋を索めて ー 』岩波文庫 の「Ⅵ」章 には、
「さきに私が、『言語アラヤ識』と呼びたいと言ったものがそれだ。」(130頁)
の一文がある。この一文を端緒に、私の「言語アラヤ識」探しがはじまった。井筒俊彦の措定した「言語アラヤ識」の出自がどうしても知りたかった。
(中略)
「さきに私が」の言葉、また「唯識思想」,「阿頼耶識」,「種子(ビージャ)」の語を手がかりにして、130頁までを、そして全頁を何往復かしたが、いまだに出自不明のままである。若松英輔の引用箇所も不明である。
時系列順に、以下の四種類の『意識と本質』が発行されている。
◇「意識と本質 ー 東洋哲学の共時的構造化のために ー 」(『思想』岩波書店,論文)
◇ 井筒俊彦『意識と本質 ー 精神的東洋を索めて ー 』岩波書店
◇ 井筒俊彦『意識と本質 ー 精神的東洋を索めて ー 』岩波書店
◇ 井筒俊彦『意識と本質 ー 精神的東洋を索めて ー 』岩波文庫
◇ 「意識と本質 ー 東洋的思惟の構造的整合性を索めて ー 」(『井筒俊彦著作集』第六巻 中央公論社,決定版)「論文」か「決定版」に当たれば解決するのだろうか。相当な時間を費やした。週末は変則的な読書に明け暮れた。深層意識内の真相は、私には不分明ということなのであろうか。
を求め、昨日 早速調べた。『井筒俊彦全集』には、巻末に「解題」と「索引」が付されている。ありがたい配慮である。
「その(「アラヤ識」の)議論を始めるさいに言及される「さきに私が、「言語アラヤ識」と呼びたいと言ったもの」(一二三頁一一行)は、おそらく(『思想』)連載第二回(1980年7月)の「言語意味的アラヤ識」を指すものと思われる。(463頁)
「用語の統一はいささか不徹底に終わった、ということのようである。」(464頁)
なお、「岩波書店版(1983年1月)」を発行する際には、「言語意味的アラヤ識」は、「意味的アラヤ識」(46頁)に訂正され、以下の一文が新たに加えられた。
「言語アラヤ識」という特殊な用語によって、私は、ソシュール以来の言語学が、「言語(ラング)」(国語、langue)と呼び慣わしている言語的記号の体系のそのまた底に、複雑な可能的意味聯鎖の深層意識的空間を措定する。(一七七頁)
上記の一文を、「言語アラヤ識」の出自と考えてさしつかえないだろう。
溜飲が下がった。直接、『思想』に当たってみたい気もするが、「言語アラヤ識」の経緯(いきさつ)については一応の解決をみた。「コトバ」の変遷については、若松英輔が、若松英輔『井筒俊彦―叡知の哲学 』慶應義塾大学出版会 (379-388頁)で詳述している。
井筒俊彦にとって『意識と本質』の執筆は、氏の「意識と本質」の実在体験と同時進行だった。今回、「言語アラヤ識」という井筒俊彦の発明に立ち会うことによって、井筒俊彦の創造、生成過程の一端を垣間見た気がする。
「コトバ」の変遷については、
「言語、言葉、コトバ_「意識と本質」を読むとは」〈『意識と本質』_はじめから」〉
をご覧ください。