天人 深代惇郎「夕焼け雲」


解説 辰濃和男
深代惇郎『深代惇郎の天声人語』朝日文庫


 「深代惇郎と私は、同期だった。
 深代は四十六歳で亡くなり、私はいま、深代が書いた『天声人語』のゲラの一ページ一ページを丁寧に読んでいる。まだ若いころの彼の姿をしばらく追って時を過ごすこともあった。
 彼が亡くなった直後、ある会合でお会いした作家の有吉佐和子さんは、こういっていた。
『深代さんはものすごく勉強していたわ。もう、オドロキでした』
 深代の作品の中で一印象に残るのはどれか、私は「夕焼け雲」(五〇三頁)をあげたい。(後 略)」(525頁)


深代惇郎「夕焼け雲」
深代惇郎『深代惇郎の天声人語』朝日文庫(503-504頁)

 夕焼けの美しい季節だ。先日、タクシーの中でふと空を見上げると、すばらしい夕焼けだった。丸の内の高層ビルの間に、夕日が沈もうとしていた。車の走るにつれて、見えたり隠れたりするのがくやしい。斜陽に照らされたとき、運転手の顔が一杯ひっかけたように、ほんのりと赤く染まった。
 美しい夕焼け空を見るたびに、ニューヨークを思い出す。イースト川のそばに、墓地があった。ここから川越しに見るマンハッタンの夕焼けは、凄絶といえるほどの美しさだった。摩天楼の向こうに日が沈む。赤、オレンジ、黄色などに染め上げた夕空を背景にして、摩天楼の群れがみるみる黒ずんでいく。
 私を取りかこむ墓標がある。それがそのまま、天空に大きな影絵を映し出しているように思えた。ニューヨークは東京と並んで、世界でもっとも醜い大都会だろう。その摩天楼は、毎日のお愛想にいや気がさしている。踊り疲れた踊り子のように、荒れた膚をあらわにしている。だが夕焼けのひとときだけは、ニューヨークにも甘い感傷があった。
 もう一つ、夕焼けのことで忘れがたいのは、ドイツの強制収容所生活を体験した心理学者V・フランクルの本『夜と霧』(みすず書房)の一節だ。囚人たちは飢えで死ぬか、ガス室に送られて殺されるという運命を知っていた。だがそうした極限状況の中でも、美しさに感動することを忘れていない。
 囚人たちが激しい労働と栄養失調で、収容所の土間に死んだように横たわっている。そのとき、一人の仲間がとび込んできて、きょうの夕焼けのすばらしさをみんなに告げる。これを聞いた囚人たちはよろよろと立ち上がり、外に出る。向こうには「暗く燃え上がる美しい雲」がある。みんなは黙って、ただ空をながめる。息も絶え絶えといった状態にありながら、みんなが感動する。数分の沈黙のあと、だれかが他の人に「世界って、どうしてこうきれいなんだろう」と語りかけるという光景が描かれている。(50・9・16)

以下、
「新聞の自由を生きた男 深代惇郎」(全)
です。