井上靖 岡潔「文明というイズム」

 一昨日の午前中には、岡潔『夜の声』新潮社 を読み終えた。

井上靖 岡潔「美へのいざない」
岡潔『岡潔対談集_司馬遼太郎,井上靖,時実利彦,山本健吉』朝日文庫
 魔物の正体がわからんと小説(『夜の声』)の主人公にいわせているのですが、先生自身、不思議だなあと思っておられることもあるんでしょうね。
井上 ええ、ございます。
 そうでしょうね。そこがたいへん実感があって、おもしろい。あれについて、ずうっと考えどおしで、汽車んなかも、そればかりでした。
井上 そうでございましたか
 それで、私なりに考えてみた。あれは文明というイズムじゃないかと…。
井上 そうでございます。
 イズムちゅうのはこわいですよ。顔の形まで変わる。イズムができる場所が(ひたいをたたいて)ここなんです。つまり、万葉が宿る場所と同じなんでしょうね。だもんだから、ひどい影響がある。あの仏教の六道輪廻(りんね)の宿る場所も、ここなんでしょうね。
井上 そうですか。
 『ある偽作家の生涯』のああいう形で出たり、イズムの形で出たり、それから万葉の形で出たり、つまり(ひたいをたたいて)ここなんでしょうね。中国のことばで、ここを泥おん宮(ないおんきゅう)っていうんです。これは有無を離れる戦いという意味です。だから、ここにあるものは、どれも実体がないんですね。だからして、実体のない思想なんかがあると思ったら、だめなんです。つまり、日本人はすみれの花を見ればゆかしいと思う。それから、秋風を聞けばものがなしいと思う。そのとき、ここには、すみれの花とか秋風とかいうものはない。しかし、ゆかしいもの、ものがなしいものはある。
井上 なるほど。
 こういう思想は、東洋にはずっとあるんですが、西洋にはないんです。西洋では、まずそこに実体があるとしか考えられない。
井上 逆になっているんですね。
 逆なんです。実際見ているのに、そうなんです。(69頁)

◆「ないおんきゅう」の「おん」は「氵に亘」です。
 また、「実際見ているのに、そうなんです」とは、「実際見ている」ものには実体がないことが見えていない、というほどの意味であろう。
 けっして他人事ではなく、また「有無を離れる戦い」とは凄絶である。


 人心は乱れ、自然は破壊されつくし、昼夜もなければ季節感もなく、この乱脈な「文明というイズム」の内にあって、千沼鏡史郎は、神の声を聞いた。
ー 闘え!
ー 正せ!
ー 直せ!
 鏡史郎は交通事故により異常をきたしていた。無防備のままに、純真なこころがむき出しになっていた。彼の直情径行は痛ましかった。
 そのなかにあって、万葉の歌はかなしいほど美しかった。鏡史郎は「趣味の万葉研究家であり、読書家であり、蒐集家」だった。雑歌、相聞歌、挽歌。部立されたかのように作品中におかれた万葉歌人の歌は救いだった。
 しょせん、「文明というイズム」は、鏡史郎のかなう相手ではなかった。
 井上靖は、岡潔は、日本を日本民族の行方をいたく憂え、また執拗に警告している。
 文明という名のもとに、いったい我々は、「どんな夢路を辿(たど)っている」のか。

次回は、
◇ 井上靖監修,大岡信編『古美術読本六 仏像』知恵の森文庫,光文社
◆ 井上靖「浄瑠璃寺の九体仏」
◆ 土門拳「新薬師寺 薬師如来の眼玉」
です。