岡潔「阿鼻叫喚」

井上靖 岡潔「美へのいざない」
岡潔『岡潔対談集_司馬遼太郎,井上靖,時実利彦,山本健吉』朝日文庫
 胡蘭成さんに孔子が作曲したと伝えられる五弦琴の「幽蘭の曲」というレコードをもらいました。かけてみたんですけど、それ聞いたあと、西洋音楽はあれは阿鼻叫喚(あびきょうかん)だなっていう気がしました。孔子は泥おん宮(ないおんきゅう)という世界をよく知っていたから、ああいう曲を作曲できたんですよ。そういう見方で、もういっぺん支那のこれといったすぐれたものを、見直さなけりゃいけない。ところが、これというところはちっとも輸入してない。孔子のいう楽とは、たとえば「幽蘭の曲」のようなものかというところを輸入してない。それどころか、五弦琴すら輸入してないんですよ。十三弦を箏(そう)といい、五弦を琴という、その箏だけ輸入したんですね。これじゃ、孔子の曲を聞けるわけがない。すると、礼楽の楽がわかるわけがない。勉強の仕方がずさんだったんでですね。
井上 そうなんでしょうね。
 理屈をいわずに、「幽蘭の曲」を聞きゃあいいんですよ。あのころはレコードがないでしょうから、五弦琴を輸入していくべきです。私はそれを聞いて、西洋音楽のひとつ上の世界の音楽というものがあり得るんだなあと思いました。
井上 先生こそ詩人ですね。阿鼻叫喚で西洋音楽を衝(つ)かれたのはすごい指摘ですね。(97-98頁)

 我が頭(こうべ)を回(めぐ)らせど、岡潔の前に詩人なく、岡潔の後に詩人なし。
 なお、孔子の「幽蘭の曲」とは、泥おん宮(ないおんきゅう)が奏でる曲、天子の、天人の奏する楽曲を意味すると考えられる。

◆「ないおんきゅう」の「おん」は「氵に亘」です。
 (前略)つまり(ひたいをたたいて)ここでしょうね。中国のことばで、ここを泥おん宮(ないおんきゅう)っていうんです。これは有無を離れる戦いという意味です。だから、ここにあるものは、どれも実体がないんですね。だからして、実体のない思想なんかがあると思ったら、だめなんです。つまり、日本人はすみれの花を見ればゆかしいと思う。それから、秋風を聞けばものがなしいと思う。そのとき、ここには、すみれの花とか秋風とかいうものはない。しかし、ゆかしいもの、ものがなしいものはある。
井上 なるほど。
 こういう思想は、東洋にはずっとあるんですが、西洋にはないんです。西洋では、まずそこに実体があるとしか考えられない。
井上 逆になっているんですね。
岡 逆なんです。実際見ているのに、そうなんです。(69頁)

「実際見ているのに、そうなんです」とは、「実際見ている」ものには実体がないことが見えていない、というほどの意味であろう。
 けっして他人事ではなく、また「有無を離れる戦い」とは凄絶である。