三世東次郎「乱れて盛んになるよりは、むしろ固く守って滅びよ」

一昨夜、
◇ 原田香織『狂言を継ぐ ー 山本東次郎家の教え』三省堂
を読み終えた。
 本書では、武家式楽の伝統を継ぐ「大蔵流山本東次郎家」、三世東次郎から四世へと相伝された、そのすさまじい稽古ぶりが、原田・笠井賢一 両氏のインタビューに、四世東次郎が応えるという形で紹介されている。

◆ 式楽「儀式に用いる音楽や舞踊。江戸幕府での能楽など」。江戸幕府公認であり士族階級に属した。
◆ 相伝: 本書では、三世から四世へ、一対一の稽古のみで伝承すること。

東次郎 何でも手っ取り早くというかね、それに対して家の親父が戒めとしていったのが、狂言なんてものは、そんなに簡単に成果が上がるものじゃない。いいか、でかい盥(たらい)に水をいっぱいに張って、箸一本でそのなかの水を回してみろって。箸一本じゃ初めは回りっこない。けれどもひたすら回して回し続けていると少しずつ水流が出来てくる。そうしたひたむきで地味な努力、それが狂言の演じ方だ。派手にバーンとやって、起承転結を合わして、さあ俺の狂言だって行き方を往々にしてやりがちになるが、そうじゃない、そんなものはうちにはないって、常々いってました。(90頁)

東次郎 (前略)派手な芸に対して、親父は「あれは、わが家ではいかん」というんです。
 何故いかんかというと、派手なものを面白いと思う人は沢山いるでしょう、しかし何人かは嫌だと思う人もいる。多分この人たちを大切にしたいという思想なのです。だからどうするかというと、うちでは平凡に地味にやる。地味なものがどこまで面白く聞こえるか、演出として曲として面白くするのではなくて、いかに平凡なものでも優れた演者がやれば万人の耳にいかに面白く聞こえるか、その理想なのです。役者がそこまで稽古するということです。
 三十になっても出来ないかもしれない。面白くさせようという意識もなくて、ただまっすぐ謡っているのに面白く聞こえてくる。これが誰に対してでも快く聞こえてくるようになるまでやらなければいけない。それがうちの芸なんだという気がします。
(中略)
 結局自分たちには、少しでもよいから共鳴してくださる方がいる、そういう芸にしなければいけない。ある水準の高さで共鳴してくださる方が必要なんです。能面が大泣きしたり、大笑いしたりするわけではない、あのわずかな表情の振幅でいいという、そういう美意識がまた狂言に繋がっていくのです。(191-192頁)

東次郎 (前略)『花子』という極重習(ごくおもならい)の扱いだし、位が大事なんです。それから細かいテクニック。そのテクニックがあからさまなテクニックでは絶対にいけないですよね。
 だから、今までの謡と謡い方が違うんだって、もっと力を表に出さずに謡えとか、言葉を立てるなとか、言葉を立てないと聞こえないっていうんですね。立てないで聞こえるまで謡い込めって。後の出の謡は「独り言」なんですが、それを見所の隅々まで独り言としてきっちり聞こえるように謡えという、隅々まで聞かせようと思えば大声になってしまう。そうでない謡い方、その技術を持つ。そうすると、それが出来たときに情緒が出てくるわけでしょう。それは工夫以上。工夫は内的なもので、技術は伝えていくことが出来る。(195-196頁)

東次郎 父親も祖父から同じような稽古をされているんですよ。『狐塚(きつねづか)』(小唄入)の稽古のときにね、右肩に担いだ引き綱の後ろを左手を背後に回して添える型があるんですけど、後ろに手を回すときに、自分では見えないから正しい位置がわからない。それから手首が曲がって美しくない。
 何度やっても出来なくて父親も叩かれて、叩かれて、それこそ、半月も叩かれた。祖父はそのときに、同じものを毎日何回もやらすわけでしょう。二回やっておしまいなんていうことは絶対ないですから。八回、十回ってやるわけです。そこで殴られて殴られて、ずっと我慢しているけれども子供心にその下りがくると「また殴られる」って涙が出たって話を父はしてましたね。ああ、また殴られるわって思うと涙が出てくる。
 今から考えたら、本当に異常ですよ、昔の稽古は。(四世東次郎のときとて同様であった)(103-104頁)


「けなされることは我慢出来る」
東次郎 もっと小さいときはね、「いいか、けなされることは我慢出来るんだぞ」といわれました。それは悔しくてもね、悪い点があるからけなされるわけで、次に挽回しようと思って、我慢できる。でも「褒められたときは我慢出来ないんだ」ってよくいわれました。「褒められるとホッと緩んでしまう。これは我慢で出来ないんだ」というんですね。人間ですからついいい気になっちゃうでしょ。「褒められたときが一番我慢出来ないんだ」って。
 それから、父親は先人たちを例に挙げて「能をやるために生まれてきたような子だと褒めちぎられた奴が、今あれだぞ」って名指しでいうんですよ。
原田 能を?
東次郎 「能をやるために生まれてきたような才能の持ち主が、あの程度の実力だぞ」ってことでしょうね。「あれはな、慢心した結果だ」と。
笠井 天性のある評判の子が慢心したということですね。
 だけどやっぱり、若いころにあまり褒められる子はまずだめですね。今、僕らが近くで見ていても、子供時代に子方時代に評判をとっていて、型がよかったりした子は、能の方では少なくとも、大成しがたい。
東次郎 だから、強迫観念があって、慢心することなんてとてもとても出来ません。親の教えで、そんな慢心は出来ない状態に置かれてきているわけですよ。そのときどきに「これは慢心かしら? これは慢心かしら?」ってずっと思い続けてましたね。あれは父に刷り込まれたかと。
 慢心というのは、少しでもすると、そこに折り目みたいに慢心の跡が残る。まっすぐ進んでいかなければいけないものが、一度でも慢心すると、痕跡が残る。慢心は知らず知らずの内にしてしまうものですからね。一度慢心して下がった芸は、ほとんど取り戻すことは出来ないし、上達もなくなるのだとも。
原田 魅力的なお話ですね。(146-147頁)
東次郎 (前略)親父は昔どおりという筋を通そうとしていたんです。虎明(とらあきら)からずっと続いてきた大蔵流の芸の伝統があって、ここに種を蒔いてそれを育てていくということ。断絶させないという意志です。(195頁)

東次郎 (前略)父親は伝統を正しく繋げることに重点を置いたのです。
 「本当の玄人の家というのは、良い畑を持たなきゃいけない。今目立っているのは西町とか、宝生しかない」と(観世)寿夫(ひさお)さんの例をいっていましたね。
 「西町っていう銕之丞家の畑があったから、あの天才の種が落ちたときに、あれだけ出来る人が出たんだ。それは昔はどこもみんな持っていた。ところが今、なくなってきている」って。「だから、お前はちゃんとした畑を持て。次の種が入ったときに、ちゃんと育てられる畑になれ」って。そのことを父親はいっていましたね。(148-149頁)

東次郎 (前略)いつも親父の眼がそこにある。だから謙虚にならざるを得ないし、うんざりする程教えられた、「ただひたすら」という感じが立ちのぼってくる。
 転じて、いつでも父や祖父に恥じないことをしなければいけないと、心の威儀を正させる空間が舞台です。(206頁)


読書中には、何度か青山二郎のことを思った。
白洲正子『いまなぜ青山二郎なのか』新潮文庫
 人間でも、陶器でも、たしかに魂は見えないところにかくれているが、もしほんとうに存在するものならば、それは外側の形の上に現れずにはおかない。それが青山二郎の信仰であった。
(中略)
 何事につけジィちゃん(青山二郎)は、「意味深長」という言葉を嫌っていた。精神は尊重したが、「精神的」なものは認めなかった。意味も、精神も、すべて形に現れる。現れなければそんなものは空な言葉にすぎないと信じていたからだ。これを徹底して考えてみることはむつかしい。生きることはもっとむつかしい。

帯には、
「乱れて盛んになるよりは、むしろ固く守って滅びよ ー 三世 東次郎 様式美と相伝の世界」
と書かれている。