岡潔 井上靖「あのお念仏の変な人」

井上靖 岡潔「美へのいざない」
岡潔『岡潔対談集_司馬遼太郎,井上靖,時実利彦,山本健吉』朝日文庫
井上 欧米文化を受け入れていって日本はどうなったと、いろいろと現代史や近代史が書かれていますけれど、確かに欧米文化を受け入れて日本はそれで大きいプラスになった面もありますけれど、とんでもないマイナスになっている面もいっぱいございますね。
 そのほうが、むしろ多いんじゃないか。
井上 中国文化も、インドの文化も、同じようにいえると思いますね。
 明治以後の日本といったら、なんていうか、学問のために魂を売ったっていうような感じですね。
井上 明治の人たちで、いま考えると、なかなかいい仕事をしている人もおります。たとえば、明治の洋画家が描きました洋画というもの、あれはなかなかいいと思うんです。
 ごくはじまりのころは、よく描いていますね。はじまりがよくって、いつもだんだん悪くなるのは、不思議だなあと思う。
井上 そうなんですね。いまでも、日本の美術史の上でも、明治の洋画家というのは、いやおうなしに高く買わざるを得ないんです。あれは、やはり日本人の心というものを失わないで、その上でヨーロッパ風のリアリズムというものを自然に受けとったと思います。それですから、ああいう洋画が描けた。
 リアリズムというのは、なんというか、習作なんです。ほんとうは、それから上へ出るためのものであることを忘れているんですね。欧米人は、実在性はけっして抜けないんですよ。実在を確かめてからでなければ、人は思想し、行為はできないと思っている。ところが、日本民族や漢民族の住んでいるところは、実在性を抜いたエキスだけの世界、それが泥おん宮(ないおんきゅう)でしょ。それが、初めのうちはあるが、いつのまにか天上から地上におりてしまう。
岡 地上に住むのは、日本人はへたで適していません。いつもそうだと思う。あの、明治維新以後悪くなったと思っているんですよ。日本歴史を少し調べてみますと、応神天皇以前と以後と違うらしい。応神天皇以前の日本人って、だいたいこんなものだろうとは想像するけど、とてももう見られないと思っていた。ところが近ごろ、私のところへ一人の人が訪ねてきた。六十ぐらいかな。その人は学校はまるでできなかった。よく卒業させたと思うくらいだが、いろいろ学校へは行ったらしい。明治の文科へ行って、仏教を習うつもりだったが、ちっとも教えてくれん。そしたら、家からもやめろというし、やめた。世間へ出たことは一度もない。小学校の先生から影響を受けたらしいのだが、その先生はどんなことを教えたんだと聞くと、「親は大切にするものだよ」と繰り返し、繰り返し教えたという。あとは、なにも教えなかった。父親とは早く別れて、ずっと母親とおったんだけど、十三回忌だっていうのだから、十数年前に死んでいる。それが悲しゅうて、悲しゅうて…、それで、ある坊さんに会ったら、「南無阿弥陀仏」といえと教えてくれた。そんなむずかしいこと、とてもいえないといったら、それじゃあ書けといわれた。書いているうちにいえるようになった。それで、いまでも朝四時半から七時までお念仏するんだそうです。お念仏していると、母親といっしょにいるような気がするんですって。それがうれしゅうて、うれしゅうて…。ほかのことはなにも望まん。念仏だけをずっと続けているんです。息子さんというのが、建築の仕事をしているとかで、富士山のそばへ家を建ててくれた。そこへ一人住んで、富士を見ながらお念仏してるんですって。なんか、まるで神がそういう模型を一つ作るために、その人に、そういう生活をさせているんじゃないかと思うくらい。訪ねてきたので会ってみたんですが、なんていうか、清らかで、ふかふかしている。おそろしく単純でいて、シャボン玉の虹の七色のようなものもみなそなわっている。ああ、このような人が応神以前の日本人じゃあるまいかと、私は思っているんです。
井上 なるほど。
 つまり、かすがちっともない。普通なら、卒業させてもらえんでしょうけど、そんなおかしな先生がいるくらいのところだから、卒業させてもらった。
井上 それは、親子の関係にしろ、師弟の関係にしろ、こうでなきゃならないといって、教えて与えるようなものじゃないんですね。
 一つさえ、ほんとうにわかりゃ、そこには森羅万象があるんです。
井上 そうなんでしょうね。
 泥おん宮(ないおんきゅう)というところは、意味を離れるというのは、つまりこういう場合なら、母親が前にいようがいまいが、同じ心のメロディーが起こるということです。お念仏するだけで、そこへ行けるんでしょう。これは仏教じゃない。かすがみなとれて、それで十分うれしゅうて、うれしゅうて、それ以上なにも望まん。(82-85頁)

 時代錯誤の、「あのお念仏の変な人」のような一群は、逸民と呼ばれて久しいが、岡潔はここに日本民族の真面目をみている。岡潔の郷愁は郷愁にとどまらず、日本を日本民族の行方をいたく憂え、また執拗に警告している。
「あのお念仏の変な人」とは悟達の人であり、古事記・万葉前期を生きる人である。
 泥おん宮(ないおんきゅう)の開発(かいほつ)に努めます。
 
◆「ないおんきゅう」の「おん」は「氵に亘」です。
 (前略)つまり(ひたいをたたいて)ここでしょうね。中国のことばで、ここを泥おん宮(ないおんきゅう)っていうんです。これは有無を離れる戦いという意味です。だから、ここにあるものは、どれも実体がないんですね。だからして、実体のない思想なんかがあると思ったら、だめなんです。つまり、日本人はすみれの花を見ればゆかしいと思う。それから、秋風を聞けばものがなしいと思う。そのとき、ここには、すみれの花とか秋風とかいうものはない。しかし、ゆかしいもの、ものがなしいものはある。
井上 なるほど。
 こういう思想は、東洋にはずっとあるんですが、西洋にはないんです。西洋では、まずそこに実体があるとしか考えられない。
井上 逆になっているんですね。
 逆なんです。実際見ているのに、そうなんです。(69頁)

「実際見ているのに、そうなんです」とは、「実際見ている」ものには実体がないことが見えていない、というほどの意味であろう。
 けっして他人事ではなく、また「有無を離れる戦い」とは凄絶である。