西田幾多郎「心のことは心にまかせる」

井上靖 岡潔「美へのいざない」
岡潔『岡潔対談集_司馬遼太郎,井上靖,時実利彦,山本健吉』朝日文庫
岡 喜怒哀楽のかな(悲)しいは、前頭葉で感じるんです。ものがなしいのかな(哀)しいは、頭頂葉で感じる。西田(幾多郎)先生のなすったことは、あれは西洋人の哲学の思索ではなくて、東洋の瞑想をなすったんです。パンセではない。瞑想というのは、西田先生によると心のことは心にまかせるということなのです。
井上 いいことばですね。
 私は西田先生のもの、読んでおりません。西洋哲学だと思っていたんです。それで、読まなかったんですが、あのことばを聞いて、それじゃやはり釈尊と同じようなことをなすったんだとわかりました。釈尊のしぶきも瞑想だと思う。泥おん宮(ないおんきゅう)に心を遊ばせる、泥おん宮を逍遥すると申しますか、ところで、井上先生は哲学をなすったんですか、美学をなすったんですか。
井上 美学でございます。
 まあ、似たもんですね。(72頁)

◆「ないおんきゅう」の「おん」は「氵に亘」です。
 (前略)つまり(ひたいをたたいて)ここでしょうね。中国のことばで、ここを泥おん宮(ないおんきゅう)っていうんです。これは有無を離れる戦いという意味です。だから、ここにあるものは、どれも実体がないんですね。だからして、実体のない思想なんかがあると思ったら、だめなんです。つまり、日本人はすみれの花を見ればゆかしいと思う。それから、秋風を聞けばものがなしいと思う。そのとき、ここには、すみれの花とか秋風とかいうものはない。しかし、ゆかしいもの、ものがなしいものはある。
井上 なるほど。
 こういう思想は、東洋にはずっとあるんですが、西洋にはないんです。西洋では、まずそこに実体があるとしか考えられない。
井上 逆になっているんですね。
岡 逆なんです。実際見ているのに、そうなんです。(69頁)

「実際見ているのに、そうなんです」とは、「実際見ている」ものには実体がないことが見えていない、というほどの意味であろう。
 けっして他人事ではなく、また「有無を離れる戦い」とは凄絶である。