井上靖 岡潔「唐招提寺 / 新宝蔵 / 破損物 如来形立像」

井上靖 岡潔「美へのいざない」
岡潔『岡潔対談集_司馬遼太郎,井上靖,時実利彦,山本健吉』朝日文庫
井上  唐招提寺(とうしょうだいじ)に行きますと、破損仏といって、こわれた仏様が並んでおります。そのなかに如来形立像という仏像がある。それは首がありませんで、手首が欠けております。脚も一部破損しているんです。しかし、胸から衣を着ております。そのひだにあかい朱がちょっと残っていまして、もとはまっ赤だったのでしょうけど、すそのほうには黒が少し残っているんです。確かに破損仏ですけれども、それが実に自由で、豊かで、大らかでございます。首がないということでいっそうそう感じられてくるのです。それを地蔵菩薩だというような見方をしている人もいますが、地蔵菩薩だろうと観音様だろうと、なんでもかまわないのです。実にそれはきれいでございます。それは頭と手を欠いたことで、ほんとうは完全になっているのだと私は思います。
 ええ、そうでしょうね。そこがおもしろいんですね。詩ですね。
井上 美術品を見る場合ですが、これはりっぱだと教えこむことに問題があるので、それは各自が発見したらいいと思うんです。いまでは美術史関係の本がいっぱいあって、法隆寺のどれはりっぱな仏様、どれは…、とそういう教育の仕方をしますから、自分で仏のいのちとの触れあいをしていないわけです。たとえばルーブル美術館へ行きましても、国立博物館へ行きましても、いわゆる傑作といわれる世界の名品というものがいっぱい陳列されているわけです。しかし、それを見たためにこちらの大切なものが変わらせられてしまうような出会いというのは、必ずしも期待できるかどうかわかりませんね。ところが唐招提寺の破損仏の場合、私は確かに出会ったんです。
 初めてそのお話うけたまわりましたが、井上先生を象徴するにたります。
井上 美術品がいい悪いというのは、確かに不思議な出会いでございますね。人間の出会いと同じです。
 そうなんです。つまり、詩というのは余韻であって、だからそんなふうになるんですね。そうですか、唐招提寺にそんなのがありますか。それはいいお話です。(100-102頁)

 本物は余韻のほうであるということを知らないんです。まだ明けきらぬ朝のよさにあることを知らない。それを自覚したら、やらなければならんことはいくらでもある。人まねしてたんじゃ、いつまでたってもなにもやれんということを知るべきですね。(102頁)

 ひとつだけわかりゃ、それでいい。ひとつわかれば、みなわかる。もし、それでわからなかったら、そいつは低いものだから、そんなものとるに足らない。
井上 そんなものより、日本にあるものをもっと見たほうがいいと思うんです。ロートレックを見るのもいいが、法隆寺については何も知らないでは困りますね。
 西洋の作品を勉強して、準備して、それから日本を見るのだってかまいませんが、最後は日本を見なきゃわからんのだということを知らない。
井上 そういうことですね。
 井上先生だって、万葉を調べて腰をすえて、日本を調べようとなすったのは、初めからそうだったわけではないでしょう。
井上 そうです。
 最後はそこへ行って、そこへ行かなきゃできあがったとはいえんというふうに…。(103-104頁)

 奈良行きが決まった。
 井上靖の「浄瑠璃寺」、また「唐招提寺 / 新宝蔵 / 破損物 如来形立像」。岡潔の「法隆寺 / 救世観音」,「新薬師寺 / 十一面観音」。土門拳の「薬師寺 / 三重塔」,「薬師寺東院堂 / 聖観音立像」。そして、「奈良ホテル / ティーラウンジ」。
 奈良行きが決定しました。