井上靖「原始帰り」
井上靖 岡潔「美へのいざない」
岡潔『岡潔対談集_司馬遼太郎,井上靖,時実利彦,山本健吉』朝日文庫
井上 先生は柳田國男先生をどうお考えになっていらっしゃるか…。岡 いや、あの人はえらいですね。
井上 それはうれしいですね。
岡 あの人、えらいですよ。
井上 この間、柳田さんの神隠しの随筆を読んでおもしろうございました。明治時代まで、私たちの村にもやっぱり神隠しというのがありました。その解釈を柳田さんは、何県の何郡の何村にいつ神隠しがあった、それはどこの太郎兵衛だというのを、たくさん集めてまいりまして…。
岡 それは実際、腰をすえて調べる価値がありますね。
井上 そして、その村の人がどういう反響を示したかという例もとってあります。「あそこのお嫁さんは夕方田んぼへ出ていった。わたしは悪いときに出ていくなあ、と思った。そうしたら、果たしていなくなった」というようなことも出ています。この悪いときということばを使った例が三つくらいあるんです。悪いときという、ある空間的、時間的条件を持った悪いときというものが、そのころの神隠しがあると信じられた時代には確かにあったということなんですね。柳田さんは、神隠しを寂寞の畏怖に触れるということばで説明しています。非常に大きい、深いさびしさというようなものに触れると、人間がその瞬間に、これは私流のことばでいうと、どうも原始帰りするということらしいんですが、原始というものにさわられるとか、つかまれるとか、そういうように柳田先生は説明しておられる。要するに原始帰りして、原始の心に立ち返って山へ向かって歩いて行く。そうして発見されて村へ連れ帰ってもらうものもいるが、発見されないと、三年でも四年でも原始時代の生活をしたんだろうと…。
岡 それはおもしろいですなあ。原始帰りということばもおもしろい。
井上 それで私は、月のまわりをぐるぐる飛行機で回るような時代になっても、原始からは自由にはなっていないと考えるのですがね。いま、蒸発とかなんとかいわれていますけど、悪いときはこれから多くなると思います。この時代に、とくに。
岡 柳田先生がえらいのはわかってましたが、そんないい論文あるとは知らなかった。
井上 たいへんおもしろうございました。柳田先生のお書きになったもののなかでも。
岡 造化の秘密がわかっていくかもしれません、そこから。
井上 そういうものでしょうか。
岡 三好さんの詩といい、実に要点ですよ。原始帰りというのはおもしろい。ぴょっと戻っちゃうんだな。百日の説法屁一つっていうやつですな。(笑い)長くかかって、せっかく染めてきたのが、ぴっよとはげっちまうんだね。
井上 そういうことなんですね。
岡 人というのはそんなもんだ、生命の境というのはそんなもんだと知るべきですな。(104-106頁)
“寂寞” の極みに立つと、人には原始をめざす性向があるらしい。
原始 人々は神々と共にあった、山々は神であり神域だった。
有史後とはいうものの、有史前に比すれば、それはわずかばかりの時の経過に過ぎず、生きとし生ける者たちの深層には、その痕跡が色濃く認められるに違いない。
“寂寞” 極まった、殊に感応しやすい体が原始を目指したのだろう。「悪いとき」とは誰彼なしに哀愁を感じる時間帯をさすと思われる。
“神隠し” といい、
“原始帰り” といい、興味は尽きない。
また、柳田國男といい折口信夫といい、やはり民俗学はおもしろい。