投稿

7月, 2019の投稿を表示しています

「山の日を前に、山気にあたる」

     偉容を仰ぎ、凄惨な 死に 慄(おのの)き、「 山の日」を前に山気にあたり、慄然としている。     読み急ぎ過ぎている。受容できないままに平衡を失いかけている。 山の本を読むという特異な体験をしている。逸脱から免れる ために小休止することにした。 2018/07/14 に「ヤマケイ文庫」「ヤマケイ新書」の存在を知った。 ◇ 高桑信一『山の仕事、山の暮らし』ヤマケイ文庫 ◇ 高桑信一『タープの張り方 火の熾し方 私の道具と野外生活術』ヤマケイ文庫 ◇ 塀内夏子『おれたちの頂 復刻版』ヤマケイ文庫 ◇ 伊藤正一『定本 黒部の山賊 ー アルプスの怪』山と渓谷社 を読み、 ◇ 高桑信一『古道巡礼 山人が越えた径』ヤマケイ文庫 「八十里越」 「八十里越の裏街道」 「熊野古道 小辺路」 ◇ 高桑信一『源流テンカラ』山と渓谷社 「源流の漂泊者 瀬畑雄三の源流哲学」 ◇ 大森久雄 編『山の名作読み歩き 読んで味わう山の楽しみ』ヤマケイ新書 「山頂」深田久弥 「山」小林秀雄 ◇ 萩原浩司『写真で読む 山の名著 ヤマケイ文庫50選』 ヤマケイ文庫 「新編 単独行」加藤文太郎 「 新編・風雪のビヴァーク」松濤明 「垂直の記憶」山野井泰史 「ナンガ・パルバート単独行」ラインホルト・メスナー をひろい読みした。そして、 ◇ 長野県警察山岳遭難救助隊『長野県警レスキュー最前線』ヤマケイ文庫 ◇ 山野井泰史『垂直の記憶』ヤマケイ文庫 が手元にあり、 ◇ 松濤明『 新編・風雪のビヴァーク 』 ヤマケイ文庫 を注文した。 「神々の山嶺(いただき)」に魅入られている。 以下、 「大暑の日に_山気にひたる」 です。

藤原敏彦「なぜか美しい」

一昨日、 ◇ 西成活裕 著 ,郷和貴 聞き手 『東大の先生!文系の私に超わかりやすく数学を教えてください!』 かんき出版 を読んだ。「e-hon」のメルマガで知った。この類いの書籍が15万部もの売り上げとは異例な気がした。職業柄やりすごすこともできず注文した。  四時間ほどで読み終え、その後中三生の女の子にさしあげた。「超わかりやす」過ぎ、その先のことばかりが気になった。が 、「ピタゴラスの定理」を「人類の宝物」と評する等々、数学は「なぜか美しい」ことを再認識した。 中学校の数学の教科書、 『未来へひろがる 数学1,2,3』啓林館 の表紙には、 「Find the beauty in Math.」 と書かれています。二年前の改訂時に記載されました。うかつなことに一昨日はじめて気づきました。  時折発する、「数学は美しい」との私の声は、むなしくこだまするばかりで、中学生の子どもたちは、いっこうに「美」に無頓着です。 藤原正彦「なぜか美しい」 藤原正彦『祖国とは国語』新潮文庫 実はこの世のどんな現象にも数学がつまっている。しかもなぜか美しい。この不思議を、神を持ち出さずにうまく説明した人はまだいない。 (116頁) 「ビュフォンの針」とよばれる確率の問題についての随筆で、以上は、その掉尾の三文です。その確率は 1/π になるそうです。 藤原正彦は、 「何の関係もありそうもない円周率が登場するのも意外だが、π 分の一という簡潔さが実に美しい。」 と記しています。 中学校二年生の教科書『未来へひろがる 数学2』啓林館(151頁)に、「数学展望台 ビュフォンの針」と題された読み物が載っています。子どもたちは、数学に美を感じるのでしょうか。執筆者の願いは通じるのでしょうか、という以前に、はたしてどれくらいの子どもたちが読むのでしょうか。はなはだ疑問です。

TWEET「十七日の月明に」

 十七日の月夜です。空は厚い雲におおわれ、月明かりこそ見えませんが、想像することはできます。    子規逝(ゆ)くや十七日の月明(げつめい)に 「と、(高浜)虚子が口ずさんだのは、」「子規が死んだ」「明治三十五年九月十九日の午前一時」を少し回った頃のことだった。空には、「十七夜の月があかあかと」かかっていた。(司馬遼太郎『坂の上の雲(三)』文春文庫、26-29頁)  虚子の句を知ってからというもの、「十七日の月明」ばかりが気になります。 下記、 TWEET「頓挫する」 です。

司馬遼太郎「日本仏教の到達点」

矢沢永一「余白に」 司馬遼太郎『人間というもの』PHP文庫(229-230頁)  司馬さんは日本歴史の急所となっている問題をあまねく解明してゆくのだが、我が国にのみ独自に発生した宗教意識をはじめて明快に解きあかした。『尻啖え孫市』の一節である。 「その如来は、どこにいる」 「十万世界(宇宙)にあまねく満ち満ちていらっしゃいます。満ち満ちて、わたくしどもが救 われたくないと申しても、だまって救ってしまわれます」 「救いとはどういうことだ」 「人のいのちは、短うございましょう? そのみじかいいのちを、永遠の時間のなかに  繰り入れてくださることでございます」 「念仏(南無阿弥陀仏)すれば、か」 「いいえ、お念仏をとなえようと、唱えまいと、繰り入れてくださいます。それが、極楽へ参れる、という境地でございます」 「わからぬことをいう。さすれば、念仏は、その極楽(きょうち)に生まれるためのまじないか、関所手形のようなものではないのか」 「ちがいます。さきほども申しましたように弥陀の本願によってたれでも救われるのでございますから、南無阿弥陀仏をとなえる者だけが極楽に生まれるというものではございませぬ。たれでも、生まれさせて頂けます。お念仏は、そういうありがたさを感謝する讃仏(さんぶつ)のことばにすぎませぬ」 これが日本仏教の到達点であったと理解すべきであろう。

「拝復 P教授様_蓼科無芸荘」

「蓼科無芸荘」,「小津安二郎監督」までは、写真の情報 とインターネットでの検索でわかりましたが、ご夫妻のことまでは…。降参です。 高原に吹く一服の涼風、確と受け止めました。 ひき続き避暑を、お楽しみください。 FROM HONDA WITH LOVE.  映画づいていますね。今回は純和風ですね。大物ですね。 小津安二郎監督は 確か、お兄さんの奥さんの方のご関係か、と記憶しております。  先週のはじめから、目と鼻の先の二軒、計三棟の解体工事が行われています。日中は、終始 重機の音がし、時折ポルトガル語の大きな声が飛び交っています。窓を閉め切り、カーテンを引き、閉塞感の中で生活しています。洗濯物も干せず、不自由な生活を強いられています。  いま、3K(きつい、汚い、危険)職場は、外国人労働者によって支えられているような気がしてなりません。 早々のご丁寧なご返信、どうもありがとうございました。 FROM HONDA WITH LOVE.

「大暑の日に_山気にひたる」

 2019/07/11 に 「trangia(トランギア)」 の 「メスティン」 を知り、 「アルコールバーナー」 を知った。以来 十日あまり、山気の中にある。  一昨日、 ◇ 高桑信一『山の仕事、山の暮らし』ヤマケイ文庫 を通読した。令和になりはじめての一冊だった。 ときに洒脱に過ぎる情景描写に辟易したが、入念なフィールドワークに基づいた一級の民俗誌の趣がある。 いま、 ◇ 高桑信一『古道巡礼 山人が越えた径』ヤマケイ文庫 ◇ 高桑信一『タープの張り方 火の熾し方 私の道具と野外生活術』ヤマケイ文庫 ◇ 高桑信一『源流テンカラ』山と渓谷社 ◇ 大森久雄 編『山の名作読み歩き 読んで味わう山の楽しみ』ヤマケイ新書 の五冊が手元にある。我知らず、気がつけば 「 高桑信一」づいている。  「ヤマケイ文庫(2010年刊)」.「 ヤマケイ新書(2014年刊)」の創刊を知ったのは、2019/07/14 のことだった。「モンベル 豊橋店」さんの書籍コーナーで目にした。ときに「山と広告」と揶揄される月刊誌、「山と溪谷」とは一線を画し硬派である。その前日には、 「trangia」 の 「アルコールバーナー」 を、前々日には、 「フューエルボトル オリーブ 0.5L」 と「バイオエタノール」を求め、火遊びに興じた。  登山用具と戯れている。「エマージェンシーセット」作りとあだ名して遊んでいる。非常食・非常飲料の類は全く持たないが、片手落ちはお手の物であり、一向に平気である。     昨日から夏休みがはじまった。夏期講習までの束の間の夏に、果てることを厭わず、と遊び惚けている。

「拝復 Dr.T様_iPhone デビューに向けて」

◇  2019/07/15_17:37 「『iPhone SE』+『楽天 SIM』にしようと思っていますが、いかがでしょうか?」 その組み合わせがいいかと思います。 以下、楽天市場の、 「Mobile Station」 です。 まず、「楽天会員」に登録して ください。はじめの一歩です。 昨日、 「モンベル 豊橋店」で買った、 ◇ 高桑信一『山の仕事、山の暮らし』ヤマケイ文庫 を読んでいます。5/19 人の山びとたちの物語を読みました。意外な職種に目を見張っています。 今週の土曜日から夏休みです。過去問も届き、いよいよ夏の陣です。口先三寸の浅薄な里人世界です。 FROM HONDA WITH LOVE. 以下、 「発売時系列とOS」 と 「画面のサイズ」 です。 「 iPhone SE」 は古いですね。「 iPhone 7」の方が画面が大きくて使いやすそうですね。 「iPhone 7 本体 新品」で検索してみてください。 毎日 梅雨空ばかり望んで い ます。梅雨寒の日が多くて助かっていますが、こんな年は珍しく、記憶にありません。記憶違いなのでしょうか? FROM HONDA WITH LOVE. ◇ 2019/07/15_20 :26 以下、「Apple  Store」より、 iPhone 7:¥50,800(税別)〜 iPhone 8:¥67,800(税別)〜 です。 以下、 「楽天市場」 でのお値段です。 ご丁寧なご挨拶、どうもありがとうございました。 いまからヤマダ電機に行ってきます。 FROM HONDA WITH LOVE. ヤマダ電機さん に三分ほどお邪魔して、いまモスバーガーでくつろいでいます。 「iPhone 7」で決まりですね。 文句なしです。 「iPhone SE」のピンクゴールドは、女性に圧倒的に人気があった機種なんですが…。 TWEET「思いがけなくも晴れて iPhone デビューです」  京都国立博物館で開催されている「京(みやこ)のかたな」展に出かける数日前から、携帯電話が誤作動を繰り返すようになり困惑しています。昨日ドコモショップに行きましたが、時代錯誤もはなはだしい料金体系にあきれ、さっさと帰ってきました。  帰宅後早速、

山村修『増補 遅読のすすめ』ちくま文庫(全)

山村修『増補 遅読のすすめ』ちくま文庫 勝間和代さんが時の人となる少し前、彼女のその読書量に驚き、速読術について真剣に考えた時期がありました。しかし、時を待たずして、斎藤孝さんの本に「頭で読む本」、「心で読む本」と書かれているのを読んで、「頭で読む本」を読む習慣のない私は、いつもの自分のペースの読書にとどまりました。そして、今回は、山村修さんの「遅読」です。霜月に入って最初の一冊です。 山村修『増補 遅読のすすめ』ちくま文庫 (「狐」は、山本修さんのペンネームです。)  先日、漱石の『吾輩は猫である』を読んでいると、ほとんどラストに近いあたりで、次の一行が目にふれた。  呑気と見える人々も、心の底を叩いて見ると、どこか悲しい音がする。  この小説を読むのは三度目である。一度目は高校生のころ、二度目は二年ほどまえのこと。一度目の高校時代ははるかな昔のことで、みごとなくらい内容の記憶は失われているから除外するとして、二度目に読んだとき、この一行には気がつかなかった。 (中略)  前回は気がつかなかった。そのときはたぶん、右の痛切ともいえる一行は目をかすめただけである。読んで感銘を受けたけれども忘れてしまったというのではない。目には映っているが印象をとどめない。なぜだろうか。答えはきまっている。速く読んだからだ。(11-12頁)  一度、真昼ごろ、野原のまんなかで、古ぼけた銀のランプに陽の光がはげしく射すころおい、小さな黄色の布カーテンの下から、あらわな手が一つ出て、千切れた紙ぎれを投げた。それはひらひらと風に散って、その向うに今をさかりと咲いている赤爪草(あかつめぐさ)の畑へ、白胡蝶のように舞いおりた。 フローベール,伊吹武彦,訳『ボヴァリー夫人 (上)』岩波文庫 (中略) いや、なんであっても、白い紙が蝶のようにひらひら舞うという、そのことだけで、馬車という密室での官能的なできごとが露わになっている。  三度目に読んだとき、ようやくその一節に感動した。もとよりうかつなたちである。一度目も二度目もゆっくりと読んではいるのだが、十分にゆっくりではなかったのだ。十分にゆっくり読むと、神ぎれが頭のなかでかたちをなしてくる。馬車の窓から紙ぎれが投げられて風にひらひらと舞うのが、官能の映像として見えてくる。

「落柿舎 京都 嵯峨野」

向井去来は、松尾芭蕉の門人で、 “蕉門十哲”のうちの一人に数えられています。嵯峨野にある去来の草庵、「落柿舎」で「落柿舎制札」の拓本をお土産に求めました。いま我が家の応接間に、自分で裏打ちをしてピンで留めてあります。愉快な制札です。 落柿舎制札               一、我家の俳諧に遊ぶべし                 世の理窟を謂ふべからず               一、雜魚寝には心得あるべし                 大鼾をかくべからず               一、朝夕かたく精進を思ふべし                 魚鳥を忌むにはあらず               一、速に灰吹きを棄つべし                 煙草を嫌ふにはあらず               一、隣の据膳をまつべし                 火の用心にはあらず                           右條々                 俳諧奉行 向井去来 訪れた際にいただいた季刊誌「落柿舎」には、 「落柿舎制札」は、元禄七年五月、落柿舎での俳席で、即興に芭蕉が作ったものともいわれ(支考編「本朝文鑑」)、また、その十年前に、去来が元案を作ったともいう。」 と書かれています。 凡(およ)そ天下に去来ほどの小さき墓に詣(まい)りけり  虚子 その後、「去来」とのみ刻まれたかわいらしいお墓を参り、落柿舎を後にしました。

「臼井吉見と『春の鳥』」

「凡例 / 言わでものこと 臼井吉見」 『名指導で読む 筑摩書房 なつかしの国語教室』ちくま学芸文庫 しかし、国語教室では、教師の権威は抑えられるだけ抑えて、もっぱら教材の権威を発揮させるべきではないでしょうか。たとえば独歩の「春の鳥」の場合、こんな文字どおり珠玉の短篇は、だまって読ませるしかテはないと思いますがどうでしょう。僕ひとりの合点では、独歩のもので一つえらべといわれたら、躊躇なくこの一篇ををあげますが、明治文学を通じて一篇ということになっても、「春の鳥」を選ぶつもり。こんないたってわかりいい渾然たる作品になると、教師は口一つはさめるはずがない。教師が口をきくだけ、生徒の理解と鑑賞をさまたげること必定です。どうぞ国語教室で、演説使いや手品師のまなねはやめてください。(017-018頁)  うかつにも、独歩の「春の鳥」を知らなかった。たいへんなことが抜け落ちていた。  早速「青空文庫」で読んだ。「こんないたってわかりいい」「作品になると、教師は口一つはさめるはずがない。教師が口をきくだけ、生徒の理解と鑑賞をさまたげること必定」なことは理解したが、終始及び腰の読書だった。陰鬱な内容にやるせなさだけが残った。  「僕ひとりの合点では、独歩のもので一つえらべといわれたら、躊躇なくこの一篇ををあげますが、明治文学を通じて一篇ということになっても、「春の鳥」を選ぶつもり。こんないたってわかりいい渾然たる作品」,「文字どおり珠玉の短篇」と、これほどまで臼井にいわしめた、この作品のよさが私にはさっぱりわからなかった。「再読は友情のしるし」ー 友好関係はついに結ばれないままに終わった。 以下、 丸谷才一「国語教科書批判_その採択の裏側」 です。

「小暑の三日後に_セミの初鳴きに言寄せて」

  小雨が止み、雲間から青空が見え隠れし、梅雨空が明るくなった。昨日の昼まぢかのことだった。アブラゼミの初鳴きを耳にした。つかの間を待ちわびての第一声のように聞こえた。   07/05 から夏休み入りしたような気がする。居職のため、そのあたりの事情は曖昧であるが、明けは早く短命である。  セミたちにとって、この世は夢か現か。もし夢ならば、夢を生きるしかあるまい。  私たちにとって、この世は夢か現か。もし夢ならば、夢に遊ぶほかあるまい。夢には夢の味わいがあるだろう。

向田邦子「あいつ、くすぐっちゃお!!」

向田邦子『言葉が怖い 新潮CD 講演』 ◇ 「金属バット事件を起こしたひと言」 ◇ 「外国人にとっての言葉の重み」 ◇ 「森繁さんの二つの名スピーチ」 ◇「 らしい言葉」の貧しさ ◇  「 江戸落語のしゃれたひと言」 ◇ 「 “バカ野郎”も “畜生”もあったほうがいい」 ◆ 川野黎子「向田さんと言葉」 向田邦子「あいつ、くすぐっちゃお!!」 古今亭志ん生さん演じる「火焔太鼓」の中で、骨董屋の若旦那が女房にさんざんにこき下ろされ虚仮にされ、その仇(あだ)を討とうと企んでいる場面で、 「帰ったら今日は女房にさんざんご馳走して腹一杯食わせて、あいつくすぐっちゃお」 という言葉が出てくるんですね。」 「あいつ、くすぐっちゃお」という「洒落たひとこと」に対して向田邦子さんは、 「あたたかみ」 「おかしみ」 「情(じょう)」 「人間の愚かさ」 を感じ、 「目頭が熱くなるんですね」 と話されています。 「人情の機微というものが非常にわかった方が偶然につけ加えたのか、志ん生さんがつけ加えたのか私わかりませんけれども…」 と、お話されています。 以下、 ◇   向田邦子「あいつ、くすぐっちゃお」(音声ファイル) ◇  古今亭志ん生「火焔太鼓」(YouTube) です。 向田邦子さんの、古今亭志ん生「火焔太鼓」 ◇ 飯島友治編『古典落語 志ん生集』ちくま文庫 ◇ NHK 落語シリーズ 五代目 古今亭志ん生「火焔太鼓」 ◇ YouTube にUPされている、 古今亭志ん生「火焔太鼓」 上記のいずれにも「あいつ、くすぐっちゃお」という言葉は見つかりませんでした。志ん生さんが、いづれの時期かにつけ加えた言葉のような気がしてなりません。志ん生さんの「あいつ、くすぐっちゃお」に向田邦子さんが感応し、向田邦子さんの講演を聴かれた方々が呼応する。言葉の響きあいの妙を感じています。

向田邦子「私にとって愛は、ぬくもりです」

「ゆでたまご」 向田邦子『男どき女どき』新潮文庫  私にとって愛は、ぬくもりです。小さな勇気であり、やむにやまれぬ自然の衝動です。「神は細部に宿りたもう」ということばがあると聞きましたが、私にとっての愛のイメージは、このとおり「小さな部分」なのです。 芥川龍之介 「 人生を幸福にするためには、日常の 些事を 愛さなければならぬ。」 以下、ご参考まで。 ◇ 向田邦子『父の詫び状』文春文庫 ◇ 向田邦子『あ・うん』文春文庫 ◇ 向田邦子『無名仮名人名簿』文春文庫 ◇ 向田邦子『霊長類ヒト科動物図鑑』文春文庫 ◇ 向田邦子『向田邦子ふたたび』文春文庫 ◇ 向田邦子『眠る盃』講談社文庫 ◇ 向田邦子『男どき女どき』新潮文庫 ◆ 向田邦子「言葉が怖い 新潮CD 講演」新潮社

新渡戸稲造「吾人はこれを余裕と呼ぶ」

新渡戸稲造 著,矢内原忠雄 訳『武士道』岩波文庫 の「第四章 勇・敢為(かんい)堅忍の精神」を読んだ。何の気なしに読んだ。 「ーー吾人はこれを「余裕」と呼ぶ。それは屈託せず、混雑せず、さらに多くをいるる余地ある心である。」(48頁) 「混雑せず」とは、おもしろい表現である。英文和訳に由来するものだろう。矢内原忠雄の意図したものかどうかは、原文に当たっていないので定かではないが、翻訳の妙味であることにかわりはない。 「上杉謙信は十四年の間、武田信玄と戦ったが、信玄の死を聞くや「敵の中の最も善き者」の失(う)せしことを慟哭(どうこく)した。謙信の信玄に対する態度には終始高貴なる模範が示された。信玄の国は海を距(へだた)ること遠き山国であって、塩の供給をば東海道の北条氏に仰いだ。北条氏は信玄と公然戦闘を交えていたのではないが、彼を弱める目的をもってこの必需品の交易を禁じた。謙信は信玄の窮状を聞き、書を寄せて曰く 、聞く北条氏、公を困(くるし)むるに塩をもってすと、これ極めて卑劣なる行為なり、我の公と争うところは、弓箭(ゆみや)にありて米塩にあらず、今より以後塩を我が国に取れ、多寡(たか)ただ命(めい)のままなり、と。」(50頁) 簡潔な文章で意を尽くしている。さらさらと流れ、障るところがない。偶然手にした『武士道』の、内容如何にもまして、まず文体に感心した。新渡戸稲造の手になるものか、矢内原忠雄の翻訳に因るものかは不明であるが、変則的な読書に味をしめた。しばらくの間、気ままな読書に耽けることにする。

TWEET「七夕の日に、元年の夏を思う」

  梅雨時である。近年になく梅雨らしい日が続いている。  梅雨寒の日が多くて、 ありがたい。梅雨空を望むにつけ、雨脚を眺めるにつけ、心静かである。 蒸されてはとてもこうはいかない。閉口するばかりである。  低く垂れ込めた雲の向こうでは、着々と夏の準備が進んでいる。梅雨明け前の荒天、真夏の茹だるような暑さ、時折台風と思うと辟易する。  茹だるといい、蒸すといい、縁(よすが)なく意の ままに、元年の夏である、平らけく安らけくあってほしいと思う。

丸谷才一「国語教科書批判_その採択の裏側」

「国語教科書批判」 丸谷才一『完本 日本語のために』新潮文庫  ーー(湯川豊)丸谷さんの中学生時代も教科書は文部省の検定制で、何種類かから先生が選んで採用していたんですか。 丸谷 そうですよ。そのうち『岩波国語』は、第一に文学的に質が高くてしっかりしたいい文章が載っていた。第二に皇国史観的、軍国主義的な文章がなかった。一年のときに教わった他の社の教科書は『岩波国語』と対蹠(たいせき)的にひどいものでした。  国語教科書で僕がいままでに感心したのは、明治時代に坪内逍遥がつくった『国語読本』、それから僕が教わった『岩波国語』、戦後のものでは筑摩書房の教科書がかなりいい。しかし、一番いいいのは谷川俊太郎や大岡信がつくった小学一年のための『にほんご』(福音館書店)で、これは検定を受けようという気持ちがなくてつくったものらしく、すばらしい出来です。その四つです。  教科書批判をやるときに全部の教科書を集めて目を通したのですが、筑摩の教科書は突出してよかった。しかし、採択率は問題にならないくらい、一番低い。  筑摩の編集者に会ったとき、その教科書をやんやと褒めて、しかしどうしてあんなに採択率が低いのかと聞いたことがある。すると彼がいうんです。地方自治体の教育委員が東京に出てくるとなると出版社にあらかじめ連絡がある。東京にくると、後楽園球場に連れていって野球を見せて、それからキャバレーに連れていって、接待をするんですって、各社こぞって。もちろんそのあとの面倒も見る。それで「うちの営業の連中はそんなことをするより帰って本を読みたいってのが揃(そろ)ってますから、まあ仕方がない」というんですね。僕はそれを聞いて、「もし俺が筑摩の営業だったら、日本中の子どものために、毎晩後楽園にも行き、キャバレーにもいって教科書を売るがなあ。会社のためにじゃなく、子どもたちのために」といった記憶があります。  ーー(湯川豊)うーん、ただ唸(うな)るのみですね。(324-324頁) ◇『にほんご』福音館書店  は、読んだものの、その後誰の手に渡ったのか、手元にはなく、行方不明です。早速 Amazon に注文しました。 また、いま、 ◇『名指導書で読む 筑摩書房 なつかしの高校国語』ちくま学芸文庫 が気になっています。市内の書店で手に取ってみるのは絶望的で、筑摩の営業の方たちの頑

「拝復 P教授様_哲学する蛙たち」

「井の中の蛙天を知る」 河井寛次郎 「居ながらにして天を知る」 哲学する蛙ですね。 FROM HONDA WITH LOVE. 追伸: 検索してみると、 「井蛙/ 知天」 河井寛次郎 「井の中の蛙大海を知らず、されど空の蒼さを知る」 「井の中の蛙大海を知らず、されど空の高さを知る」 「井の中の蛙大海を知らず、されど井の深さを知る」 等が見つかりました。哲学する蛙たちです。 追記: いま、 ◇ 菅野昭正 編『書物の達人 丸谷才一』集英社新書 を読んでいます。   菅野昭正、川本三郎、湯川豊、岡野弘彦、鹿島茂、関容子 諸氏による「 連続講演会(世田谷文学館 二〇一三年)」の書籍化です。帯には、「『文学』そのものであったひと。」との一文が記されています。 ナイス   0

「いま最も気になる、坂本睦子という女性」

「魔性の女」といえば、坂本睦子は、確かにその範疇におさまる女性だが、この世のスキャンダル、狐と狸の化かし合い、惚れた腫れたは、私の関心の埒外のことであって、しかしなお私が坂本睦子に魅かれる理由は、坂本睦子に「超然」としたものを感じるからである。「神々に愛された女性」をみるからである。 「むうちゃん(坂本睦子)は、李朝(りちょう)の白磁のように物寂しく、静かで、楚々(そそ)とした美女であった。若い頃の写真を見たことがあるが、私にいわせれば年をとってからの方がはるかに魅力があったように思う。」 白洲正子『いまなぜ青山二郎なのか』新潮文庫(118-119頁) 繊細な感性の持ち主である、昭和の文壇を華やかに彩った文士たちの嗅覚は鋭く、放っておくはずはなく、放っておかれるはずもなく、 「曰(いわ)く、直木三十五(さんじゅうご )、菊池寛(かん)、小林秀雄、坂口安吾(あんご)、河上徹太郎、大岡昇平 ect ect。」 「銀座に生き銀座に死す」白洲正子『行雲抄』(40頁) あまたの遍歴を重ねて、なお汚れなき坂本睦子は無邪気です。 「そういう意味では、昭和文学史の裏面に生きた女といってもいい程で、坂本睦子をヌキにして、彼らの思想は語れないと私はひそかに思っている。」 白洲正子『いまなぜ青山二郎なのか』新潮文庫(118頁) 坂本睦子は、自死という形で数奇な人生の幕を引いた。「神々に愛される」ということは、ときに非情です。 「いま最も気になる、坂本睦子という女性」_参考文献 ◇「銀座に生き銀座に死す」 白洲正子『行雲抄』(34-53頁) ◇ 「ある回想」 野々上 慶一『ある回想―小林秀雄と河上徹太郎』新潮社  (9-33頁) ◇『ある回想』を読んで 白洲正子『名人は危うきに遊ぶ』新潮社(181-186頁) ◇白洲正子『いまなぜ青山二郎なのか』新潮文庫(111-123頁) ◇ 「ある回想」 野々上 慶一『ある回想―小林秀雄と河上徹太郎』新潮社  (9-33頁) は、この夏一番のお薦めです。「大人の友情」です。「高級な友情」です。 以下、 小林秀雄「河上(徹太郎)の方が大事なんだ」 白洲正子「美神は常に嫉妬深い」 です。

TWEET「何でこんなに淋しい風ふく」

 三日前の早朝から激しい腹痛をともなう下痢に見舞われ、それが落ち着いたいま、ひとり蕭条とした風に吹かれている 。  弛緩して 力なく、虚弱へと転落した。 「 何でこんなに淋しい風ふく」  梅雨明けを前に、秋思に沈んでいる。 「朱夏」に、「白秋」を綴ろうと思う。 ◇ 早坂 暁『山頭火―何でこんなに淋しい風ふく』日本放送出版協会(1989/08) ◆「何でこんなに淋しい風ふく」   種田山頭火『定本 山頭火全集 第一巻』(春陽堂書店、一九七二年)二六四頁。『草木塔』所収。

「マイワシの群泳_名古屋港水族館」

中学二年生の国語の教科書、 ◇『国語 2 』光村図書  には、 ◇ 佐藤克文「生物が記録する科学 ー バイオロギングの可能性」 と題された作品が載っています。  なお、「バイオロギング」とは、 「生物に小型のビデオカメラや センサー を取り付けて画像や データ を記録し、 行動 や生態を調査する研究手法」 との記載が、 「デジタル大辞泉の解説」 にあります。  私には、以下の文章が理解できなかった。群れをなせば、捕食者の目に留まりやすくなり、かえって危険だとしか思えなかった。 「潜水開始と終了を一致させる(アデリー)ペンギンたちの行動は、イワシなどの小魚が、群れになって捕食者の目をくらませるのと同じように、捕食者から身を守るための行動であるようだ。野生のペンギンにとっては、餌を効率よく捕ることも重要だが、捕食者に食べられないこともまた重要なのだ。」(47頁)  インターネットで検索すると、間もなく答がみつかった。幸せな時代である。     以下、 「チーム八ちゃん_イワシが群れる理由」 からの抜粋である。 「 以前、「どうしてイワシはこのような群れを成すのだろう?」と素朴な疑問を持ったことがあります。イワシに限らず群れを成す習性の生き物は多くいますが、生物が群れを作るのは、生存確率を高めるためです。群れを作る理由としては様々な説がありますが、主な説として (1) 餌が捕まえやすくなる (2) 他生物から捕食されにくくなる という二つの説がありますね。イワシの場合は、後者が理由と考えられています。群れていると、遠くからでも一発で発見されてしまうというデメリットがありますよね。しかし、群れの一員でいることは、捕食者に発見されやすいという不利を覆せるほどの利益があるからだと思われます。つまり捕食者から狙いをつけられにくくなるということです。同じ顔、同じ大きさでキラキラ光るイワシたちが群れでいると、その中から特別な一匹を探すのは、「ウォーリーを探せ」の何倍も難しいことです。1匹に狙いを定められないと、次の瞬間の場所や行動を捉えることもできないので、群れの一員でいることだけで生存率がぐっと高くなるということなんです。その分いざ狙われた時に逃げやすく、結果的に生存確率が高まるのです。」  群れの一匹に狙いを定めないかぎり、いかに獰猛な捕

「拝復 P教授様_七月の鯨」

 「七月の鯨」 今月は大きな転機になっております。 自ら約した月です。 腹も言葉も「七分目」  日曜日の早朝から激しい腹痛をともなう下痢に見舞われ、七転八倒し、つい今しがたまで床に伏せっていました。土曜日の夕方から弟夫婦が来豊し、二泊三日の間、父の介護のすべてを委ねました。  気がつけば、今日から七月ですね。 「八月の鯨」のストーリーを読みました。「人生の半分はトラブルで、あとの半分はそれを乗り越えるためにある。」との台詞には、目を覆いたくなりますね。  梅雨明けまでの短い命とあきらめております。  梅雨明けとともに夏期講習です。喧騒の夏です。饒舌の夏です。 お便り、どうもありがとうございました。 FROM HONDA WITH LOVE. 「時間は命の断片です」 くれぐれもスリにはお気をつけを! スリの妙技をもって我知らず、ならば諦めもつくのですが、真綿で首を、はかないませんね。 梅雨時の候、くれぐれもご自愛ください。 FROM HONDA WITH LOVE.