司馬遼太郎「日本仏教の到達点」

矢沢永一「余白に」
司馬遼太郎『人間というもの』PHP文庫(229-230頁)

 司馬さんは日本歴史の急所となっている問題をあまねく解明してゆくのだが、我が国にのみ独自に発生した宗教意識をはじめて明快に解きあかした。『尻啖え孫市』の一節である。

「その如来は、どこにいる」
「十万世界(宇宙)にあまねく満ち満ちていらっしゃいます。満ち満ちて、わたくしどもが救われたくないと申しても、だまって救ってしまわれます」
「救いとはどういうことだ」
「人のいのちは、短うございましょう? そのみじかいいのちを、永遠の時間のなかに
 繰り入れてくださることでございます」
「念仏(南無阿弥陀仏)すれば、か」
「いいえ、お念仏をとなえようと、唱えまいと、繰り入れてくださいます。それが、極楽へ参れる、という境地でございます」
「わからぬことをいう。さすれば、念仏は、その極楽(きょうち)に生まれるためのまじないか、関所手形のようなものではないのか」
「ちがいます。さきほども申しましたように弥陀の本願によってたれでも救われるのでございますから、南無阿弥陀仏をとなえる者だけが極楽に生まれるというものではございませぬ。たれでも、生まれさせて頂けます。お念仏は、そういうありがたさを感謝する讃仏(さんぶつ)のことばにすぎませぬ」

これが日本仏教の到達点であったと理解すべきであろう。