「臼井吉見と『春の鳥』」

「凡例 / 言わでものこと 臼井吉見」
『名指導で読む 筑摩書房 なつかしの国語教室』ちくま学芸文庫
しかし、国語教室では、教師の権威は抑えられるだけ抑えて、もっぱら教材の権威を発揮させるべきではないでしょうか。たとえば独歩の「春の鳥」の場合、こんな文字どおり珠玉の短篇は、だまって読ませるしかテはないと思いますがどうでしょう。僕ひとりの合点では、独歩のもので一つえらべといわれたら、躊躇なくこの一篇ををあげますが、明治文学を通じて一篇ということになっても、「春の鳥」を選ぶつもり。こんないたってわかりいい渾然たる作品になると、教師は口一つはさめるはずがない。教師が口をきくだけ、生徒の理解と鑑賞をさまたげること必定です。どうぞ国語教室で、演説使いや手品師のまなねはやめてください。(017-018頁)

 うかつにも、独歩の「春の鳥」を知らなかった。たいへんなことが抜け落ちていた。
 早速「青空文庫」で読んだ。「こんないたってわかりいい」「作品になると、教師は口一つはさめるはずがない。教師が口をきくだけ、生徒の理解と鑑賞をさまたげること必定」なことは理解したが、終始及び腰の読書だった。陰鬱な内容にやるせなさだけが残った。
 「僕ひとりの合点では、独歩のもので一つえらべといわれたら、躊躇なくこの一篇ををあげますが、明治文学を通じて一篇ということになっても、「春の鳥」を選ぶつもり。こんないたってわかりいい渾然たる作品」,「文字どおり珠玉の短篇」と、これほどまで臼井にいわしめた、この作品のよさが私にはさっぱりわからなかった。「再読は友情のしるし」ー 友好関係はついに結ばれないままに終わった。

以下、
丸谷才一「国語教科書批判_その採択の裏側」
です。