「弥勒菩薩 京都 廣隆寺」

もう十回にもなろうかと思います。廣隆寺を拝観すれば、その逗留時間はいつも長く、弥勒菩薩の御前にしつらえられた長椅子に腰を下ろし、居眠りをすることも珍しいことではありません。安らけく寝ませていただくために訪れているのかもしれません。


菊池正浩「取材ノート 悩む『美しい青年』」
「なぜ、これほどまでに魅力的なのか」(46頁)

 広隆寺の弥勒菩薩は、もともと専門家のあいだでは、“仏像鑑賞第一課”とよばれていたときく。それほど多くの人々が、この仏像をきっかけとして仏像の魅力にとりつかれ、多くの仏像を鑑賞しては、また、この仏像にまいもどってくるということをしめしているのだろう。
(中略)
 仏師は、造形を探り、哲学者は、ことばを選ぶ。戦後、ここを訪れたドイツの哲学者のヤスパースのことば。
 「この広隆寺の仏像には、本当に完成され切った人間実存の最高の理念が、あますところなく表現されています。それは、この地上におけるすべての時間的なるものの束縛を超えて達し得た、人間存在の最も清浄な、最も円満な、最も永遠な姿の表徴であると思います」 
 仏師の西村公朝さんは、次のような分析をしている。
「身体の不均衡的な弱さに対し、明るい笑みをたたえた顔の表情に特殊な魅力があり、しかも胴部の角柱に近い大きな面取りによる立体感や、ギリシャ鼻風に通る鼻筋などには、われわれをして近代彫刻を想わしめるような美的効果のあること」
 哲学者がこの仏像に“人間実存の最高の理念の表現”をみ、仏師は“近代彫刻を想わしめるような美”をみるところに、この仏像が永遠の生命をもって人々に働きかける秘密の一つが隠されているようである。