フルトヴェングラー「第五交響曲」1947年5月27日
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
ユニバーサル ミュージック クラシック
を購入し、聴いています。歓喜に満ちています。
聴くということと指揮をするということ、演奏をすることの近さに思いをいたしております。よく聴くということは至難であって、創造の世界です。マスタリング、リマスタリングの世界も然りだと思っております。私には遠くおよびもつかない、かけ離れた世界のできごとです。
演奏の一回性ということを思います。後世に遺そうという企図は、かつて成功した試しがありません。まず、聴き手が聴く、時が、空間が圧倒的に違います。これは、文化や自然一般についてもいえることです。保存とは、人の手の入った擬似的な形を遺すことでしかありません。逆説めいた宿命です。
演奏の一回性ということを思います。後世に遺そうという企図は、かつて成功した試しがありません。まず、聴き手が聴く、時が、空間が圧倒的に違います。これは、文化や自然一般についてもいえることです。保存とは、人の手の入った擬似的な形を遺すことでしかありません。逆説めいた宿命です。
小林利之「フルトヴェングラーの『第5』録音」(ジャケットより)
1947年、ようやくベルリン・フィルハーモニーを指揮できる状況になり、5月25日から29日にかけて、前後4回の演奏会の指揮台にフルトヴェングラーは立つ事になった。廃墟のままのベルリン、戦後のおそろしいほどの衣食住の窮乏が続いていた時代である。1枚の入場券のために幾日も前から行列に並んだ人や、当時、貨幣なみに通用していた貴重な配給のコーヒーやタバコ、中には大切にしていた自分の靴を差し出す人もあったという。ティタニア・パラストの舞台に「フルトヴェングラーが現れると、ホールをうずめた2000の聴衆はまるで狂気にかられた様だった。立ち上がり、拍手し、大声で叫ぶ。オーケストラの楽員たちも起立した。ーー(中略)フルトヴェングラーは《エグモント》序曲、《田園交響曲》および、第5を演奏した。演奏が終わったとき、喝采は何時はてようともしなかった。もう聴衆はこのホールから出て行かないのか、と思われるほどの場面が長くつづいた」(クルト・リース『フルトヴェングラー、音楽と政治』より)。
このCDに聴く「第5」と《エグモント》序曲は、歴史的なフルトヴェングラーのベルリン・カムバック・コンサートの第3日目にあたる1947年5月27日の演奏である。
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー「ベートーヴェン:交響曲第5番」
5つ星のうち 5.0
第1楽章の問題も解決。リマスターによって、音質改善
投稿者 Tamaki Hosoe
投稿日 2009/2/10
形式: CD Amazonで購入
フルトベングラーが非ナチ化(戦犯)裁判に勝利し、復帰第一回目の演奏会3日目の録音である(1947/5/27)。第五交響曲を、これほどドラマチックに、いわば即興的に燃えて演奏した例はない。1943年の、木造のベルリンフィルが焼け落ちる前の、叩きつけるようなライブとともに、持っておきたい至高の名演の一つである。
同一日の録音、同一音源でも、本物に初めて出会えた感があるので、この日の CD を他のプロデュースで買い多くの友人にプレゼントしてきた贖罪を含め、コメントしたい。LP 1400 番台の疑似ステレオ盤を NHK-FM エアチェックして、驚愕した。しかも、1楽章の終わりでは、楽員の興奮のあまりか、ピッチが少しずつずり上がってしまっている。よくフラットにはなるが、こういう現象は聞いた事がない。指揮者は気づいていて、1楽章終結直前のフェルマータの後、長いポーズを取りピッチを元に戻すので、一聴、ピッチが下がったかの印象を受ける。このエアチェックテープでは、このあたりが明瞭に聞き取れた。
しかし、LPも6000番台になると、この、ライブでしか味わえない不思議なピッチの上下もなく、平板になってしまっていた。音楽之友社や、高名な評論家もプロデュースに関与されたようである。おそらく電気的に編集を施した盤が、CD でも発売。これ以外なかったから、無理でも買わざるを得なかった。シュワンのディスコグラフィーには、5/25日演奏のみしか載っていなかった。
この CD は、よく注意して、1楽章終結直前を聞いていただきたい。私の指摘を確認できるはず。海外のプロデューサーによって、リマスターされ、息を吹き返した、究極の歴史的名演!! こちらをお薦めする。
尚、フルトベングラーは、「音と言葉」白水社、新潮文庫本、「音楽ノート」「フルトベングラーの手記」など、音楽解釈と言うよりは、音楽哲学をも、多く記し残している。「音と言葉」の中では、第5交響曲のリズムテーマや一楽章について、楽譜に基づき長文で論じているので、参考にされたい。
付記 Delta Classics によるLPからの復刻、第二世代
ベートーヴェン:《エグモント》序曲/交響曲第1番(*)/交響曲第5番《運命》
広い音場ではないが、ややステレオ感あり楽音も自然。
付記 LP SLGM-1439
'60年代の疑似ステレオ盤を35年ほどぶりに聞いた。上野の東京文化会館 音楽資料室の貴重なコレクション、豪華な器機に感謝申し上げる。この LP、針音もキズもなくきちんと管理され、何千回となく Play されてきた事であろう。既にジャケットはボロボロであるが...
楽音の自然さ、楽器の強烈なアタック、吹き抜ける高域の伸び、クラリネットの飛び出しも自然に聞こえる。靴を踏みならしての加速、爆発するスフォルツァンド、マスターテープのゴーストもカットされていない。
緊張感を伝える椅子のきしみ、聴衆のセキ(最初のみ)、ピアニッシシモでのオーケストラへの鞭(タクトでピシッと二度叩いて注意を促す)。低音から開始されるアインザッツ、人声に似たまた時には荒々しい音色、テンポの適切さそして加速減速、リズムの刻みや、低弦のピッチカートに至るまで決して疎かにしてはいない、これら熱狂的な日本人のファン呼ぶ所の"フルトベングラー節"を堪能でき、改めて襟を正さずにはいられなかった。
-- モノーラル音源から彼のために開発された Stereo Transcription による音場の広さ、残響の広がり、これら真のハイファイ(高忠実度)技術を体験できた。プロデュースの違いによってオリジナルの立派さを知る事ができ、音楽の深さ、音楽探究の底知れなさを味あわせてくれた。日本音楽ファン、レコード大国に 多謝。
参考: