「漱石先生、ない智慧をしぼる」


下記のサイト、
からの孫引きです。近日中に 江藤淳『漱石とその時代 第三部』にあたります。

懐手事件

 夏目漱石が東京帝国大学で講師をしていた時に、隻腕の学生に対してそうと知らずに小言を言ってしまうという小事件があったらしい。江藤淳「漱石とその時代 第三部」で引用されている、森田草平「漱石先生と私 上」からの孫引き(くの字点を使わないようにするなど、一部、仮
名遣いを改めた。他の引用部も同様)。


 明治38年11月10日ごろのこと。講義を突然中断した漱石は、教室の中ほどの席につかつかと歩み寄ると、そこにいた学生に説教を始めた。前列の席にいた森田には、最初は漱石が何を言ってるのかよくわからなかった。
が、だんだん聞いてゐると、その学生は毎も懐手をして頬杖を突いたまゝ、先生の講義を聴いてゐる。それが毎々のことだ。何うでもいゝやうな事ながら、それでは余りに師に対する礼を失しはしないか。ちやんと手を出したらよからうと注意してゐられるものらしい。然るにその学生は、いくら云はれても、俯向いて黙つてゐるばかりで、返辞もしなければ手を出さうともしない。先生の声がだんだん高くなる。見兼ねて、隣席の学生が「先生、この人は元来手がないのです」と注意した。その時先生はさつと顔を赧くされた。何とも言葉が出ない程の衝撃を受けられたらしい。そのまゝ黙つて教壇へ引返されたが、暫くは両手を机に突いたまゝ、顔を上げられなかつた。教室内も水を打つたやうに鎮まり返つてゐた。学生一同も、何うなることかと一寸気を呑まれた形である。が、やつと顔を上げると、先生は「いや、失礼をした。だが、僕も毎日無い智慧を絞つて講義をしてゐるんだから、君もたまには無い腕でも出したらよからう。」かう云つて、直ぐさま後の講義を続けて行かれた。

「漱石先生、ない智慧をしぼる」のお話は、日本近代文学の講義で清水茂先生からおうかがいしました。ウェブサイト上にこのように詳細が書き込まれているとは知りませんでした。

「そこのカップル、おしゃべりしたいなら教室を出ていきなさい。外には闇が待っておる」と学生を注意し、私たちの笑いを誘った清水茂先生も、漱石先生に劣らず、なかなかのものでした。