折口信夫「ムスビ神_すべての宗教から自由」

 三日前には、白川静「中国の神話 ー 奪われたものがたり」中の、170字の作文に苦戦し、まる一日を費やした。辛酸を嘗めた。

「神話の喪失はどういった事態を招くか、それは神話の存在意義を解することでもある。
 共通の神々を戴くことで集合していた結束を失い、あるいは離散し、畏れ畏(かしこ)まることを忘れ、矜持は薄れ民度は低くなる。寄る辺なく寄す処(よすが)なく、活力なく、心的な安定を欠くようになる。日々神々とともに暮らしていた古代人にとって、神話の喪失は致命的であったといえよう。」

 繰り返し読んでいると時代が交錯し、時代の感覚が怪しくなってくる。
「古代」を「いま」に置きかえて読んだとき、さして違和感を覚えず、寄る辺なく依す処なく、活力なく、私たちは混迷の時代を生きていることが自覚される。

◇ 中沢新一『古代から来た未来人 折口信夫』ちくまプリマー新書
「第五章 大いなる転回」
「第六章 心の未来のための設計図」
において、折口信夫は、ムスビ神(高皇産霊神(たかみむすびのかみ)・神皇産霊神(かみむすびのかみ))をおおもとに据えた。ムスビの神は三位一体(魂・生命・物質)の内部構造をもっている。

「つまり神によつて体の中に結合せられた魂が、だんだん発育して来る、それとともに物質なり肉体なりが、また同時に成長して来る、その聖なる技術を行ふ神が、高皇産霊神・神皇産霊神、即(すまわち)むすびの神であります。つまり霊魂(れいこん)を与へるとともに、肉体と霊魂の間に、生命を生じさせる、さういふ力を持つた神の信仰を、神道教の出発点に持つてをります。」(127頁)(『折口信夫全集』中央公論新社、第二十巻 所収)

「魂には、自然に自分の内部から純粋(じゅんすい)な力を放出してくる能力が宿っている。つまり、放(ほう)っておいても、自然状態におかれた魂はだんだんと発育し、膨らみ、増殖してくるのである。こういう魂を、ムスビ神は生命と結びつけている。そのために魂の発育につれて、生命はいよいよ活発な活動をおこない、生命に結ばれた物質(肉体)の成長がおこってくる。三位一体をしたムスビの神は、そのままで増殖をおこなう霊であり物質であり生命なのである。」(128頁)

「ムスビ神は、神々が棲息することになる空間」以前に形成される「『前空間』に住んでいる」。「ムスビの神は、空間の原基をつくり」「神々の世界が展開できる確かな空間がつくられると、すっと隠れて、その存在が感知できなくなるような神」(122頁)である。それゆえに「すべての宗教から自由」(122頁)であることが可能になる。ムスビの神は折口にとって最初であり最後の存在であった。
 ムスビの神を基底に据え、「すべての宗教から自由」で、汎用的な範型を、折口が構想していたことは理解される。それ自体独創的で明らかな考えであるが、社会に受容する準備があるかどうかはまた別問題である。騙し騙されるの世界に馴れ合い、こと宗教にいたってはその傾向が最も強く認められ、いまを生きる人々に、折口の説く「新しい神道」を受け容れる素地があるとは、とても考えられない。神話の必要性など感じないほど、人々は鈍感になっている。
「やはり神道は言挙げせぬこそふさわしいのかもしれない」と、簡単に結論づけてしまえば、失礼の極みなのであろうか。